パラアスリート、谷真海。東京オリンピック・パラリンピック招致活動の最終プレゼンテーションでも活躍した彼女が、三年後に迫った東京パラリンピックにかける思いを語ったインタビューの後編です。
───谷さんが初めて出場されたアテネパラリンピック当時と比べ、パラスポーツを取り巻く環境というものがここ数年で大きく変わった印象を受けます。現役のパラアスリートから見てもそのあたりの変化は感じるものでしょうか。
パラリンピックは大会を重ねるごとに着実に盛り上がりが増してきているように思えます。とくに心に残っているのはロンドン。大会の運営も素晴らしかったですし、何より観客の皆さんが、オリンピアンに対するのと同じような目線で、純粋に競技を楽しみながらパラリンピアンを応援してくださったのがとても大きかったと思います。メディアの皆さんも含めて本当にロンドンが一つになって作り上げた大会であることが伝わってきました。
そうやって広がりを見せているムーブメントをどうやって切らさず、発展させていくのかというのが東京に向けて私たちに課せられた課題。「さすが日本だね」って言われたいですから。パラトライアスロンは自分のクラスが東京で開催されるかどうかまだ決まっていない状況ではありますが、準備はしっかりしておこうと思います。
───ロンドンがそうであったように、私たち観る側の人間もパラスポーツの楽しみ方をもっと知る必要があると思います。
私自身、アテネで世界のパラリンピアンを初めて目の当たりにしたときに、本当にかっこよくて輝いているなと思ったんです。当時の私は義足になって一年半くらい。脚がなくなってしまった自分を引きずっていたところもあったので、彼らが障がいに対して全くネガティブにならず、自分の能力をいかに引き出していくかということだけにフォーカスしている姿を見て、なんて生き生きしているんだろうと感動しましたし、あれから十年以上が経った今は自分もそういう生き方ができているなと実感できています。 まだまだパラスポーツを見慣れていない方も多いと思いますが、まずは一度、どの競技でもいいので生で観戦してみていただきたいですね。「ああ、意外に面白いな」とか、「思ったよりも速いね」とか、そういう風に感じていただけたら嬉しいです。
───あらためて、これまでの紆余曲折を経た道のりを振り返ってみて、どのようなアスリート人生だと感じていますか?
小学校の頃の水泳や、中学でやっていた陸上が、今トライアスロンに生かされているなんて人生は不思議ですね。昔の自分に感謝したいです。『ラッキーガール』を書いたときは将来に不安を抱えていたのが、今や競技者として四度目のパラリンピック出場を目指している。そして家族も子供もいる。病気、震災と、もちろんその都度辛いことや大変なことはたくさんありましたけれど、トータルで見ると普通ではできない経験をたくさんさせてもらえてとても幸せな人生だなと思います。本当にラッキーガールですね。
───二〇二〇年の東京大会は、谷さんにとって三十代最後のパラリンピックであり、同時に母親として迎える初めてのパラリンピックでもあります。そういう意味でもこれまでの競技者人生の集大成になると思いますが、三年後に向けての抱負をお聞かせいただけますでしょうか。
今年、世界選手権で勝てたことは大きな自信になりました。でもパラリンピックはそう簡単な場所ではないとこれまでの経験からもよくわかっているので、東京に向けてもっともっとステップアップしていきたいですね。ただ、どこかで二〇二〇年はどんな年になるだろうかという不安もあります。東京パラリンピックというのは私の中でそれくらい大きなイベント。そこにかける思いが強ければ強いほど、怖さもあれば生活に緊張感もあるので。ダメだったらどうしようという思いを振り払いながら日々トレーニングに励んでいます。とにかく、「よしっ」と自分が納得できる万全な気持ちでスタートラインに立ちたいですね。今回は初めて家族で夢に向かって挑戦するという貴重な機会にもなるので、喜びも倍以上になるのではないでしょうか。それを純粋に楽しみたいですね。
【プロフィール】
谷 真海さん
たに・まみ●陸上選手。1982年宮城県気仙沼市生まれ。旧姓・佐藤真海。早稲田大学在学中に骨肉腫により右脚膝下を切断。卒業後サントリーへ入社し、走幅跳でアテネ、北京、ロンドンパラリンピックに出場。2013年にはIOC総会の最終プレゼンテーションでスピーチを行い、2020年東京オリンピック・パラリンピック開催決定に貢献。現在、パラトライアスロンで4度目のパラリンピック出場を目指している。
*『青春と読書』2017年12月号より転載
聞き手・構成=徳原 海 撮影=矢吹健巳(W) ヘアメイク=秋月庸佑(traffic)