パラ陸上の種目別日本一決定戦、第34回日本パラ陸上競技選手権大会が4月29日から30日にかけて兵庫県神戸市の神戸総合運動公園ユニバー記念競技場で開かれ、ベテランから若手まで200名を超える選手がそれぞれの目標に挑んだ。そのひたむきな挑戦を、2日間でのべ3000人の観客が後押しした。
今年はとくに、7月にパリで開催されるパラ陸上・世界選手権日本代表の最終選考会も兼ねて行われた。派遣標準記録を突破した上で今大会を制すれば、代表に内定する。ここでは投てき種目で内定をつかんだ選手など今後の活躍が期待される選手たちを紹介する。なお、パリ世界選手権で4位以内に入れば、来年に迫るパリパラリンピックの出場枠が与えられる。
男子やり投げF46 (上肢障害)は有力選手が多く、「ライバル対決」が注目されたが、元日本記録ホルダーで、東京パラリンピック7位入賞の山崎晃裕(順天堂大職員)が4投目に58m37を投げ、2大会ぶりの日本王者に返り咲いた。
この一投で派遣標準(57m78)も突破し、自身3回目の世界選手権代表も内定させた。ラストチャンスをものにし、「めちゃくちゃ嬉しい」と安堵の笑顔を見せた。2018年にマークした自己ベスト60m65を持つが、代表選考指定期間は昨年1月1日から。「投げられる記録だからこそ、プレッシャーがすごかった」
約5年前から体幹を故障している。患部は左の腹斜筋で、左利きの山崎にはスローの時、肝となる部分だ。痛みに耐えながら東京パラ出場を果たしたが、無理がたたって悪化させた。東京パラ後は引退もよぎったが必死に前を向き、昨年はリハビリ優先で試合出場を減らし、地道なトレーニングを積み重ねた。派遣記録突破に手こずったのは、そのためだ。
山崎は1995年、右手首がなく生まれたが、小学生で野球を始め、高校では甲子園を目指した。大学時代には障害者野球の世界大会準優勝の実績も持つ。2015年秋、パラリンピック出場を目指し、強肩を生かせるやり投げに転向。以来、第一人者として活躍しているが、キャリアの大半は体幹の故障にも悩まされてきた。
念願だった東京パラも、「出場はできたが、満たされていない。必ずもう1回勝負して海外の選手たちに勝っていきたい。まずは『勝てる自分になる』こと」をモチベーションに練習に打ち込む。患部は今、痛まないが麻痺状態で万全ではない。体の使い方を見直し全身を使うことで患部の負担を減らし、パフォーマンス向上に励む。
苦しみながらもつかみとったパリ世界選手権では4位以内に食い込んで来年のパリパラリンピック出場内定を取り、東京パラでの悔しさを晴らしに行く。
そんな山崎に続いて2位に入ったのは、前回大会覇者で現日本記録(61m24)保持者の高橋峻也(トヨタ自動車)だ。派遣標準は昨年中に突破していたが、優勝を逃したため今大会での世界選手権内定はお預けとなった。「悔しいの一言です」
1投目から57m61を投げて大きくリードしたが、そこから伸ばせず、4投目で山崎に逆転された。「目の前で記録を越され、早く山崎選手を抜き返したいと力み、フォームを崩してしまった」と敗因を挙げた。
1998年生まれの高橋は3歳で脊髄炎を患い、右腕に障害が残ったが、小学2年から野球を始めた。高3の夏、甲子園出場後に野球経験を買われてスカウトされ、大学から陸上部でやり投げに転向した。2019年の世界選手権で6位に入りながら東京パラ代表は逃したが、2022年日本記録(61m24)を樹立するなど存在感を増している。
「ここ最近は3m以上差で優勝する試合が多く、追いかける展開は久しぶりだった。国際大会では海外の選手に負けている状態から、どう記録を伸ばすかがカギになってくる。気持ちの面で、すごく勉強になった」
悔しさも「いい経験」と捉え、先を見据える。世界選手権代表に選考されれば、「まっすぐ引いて、まっすぐ投げるスローの基礎に立ち返り、再現性を高め」て、悲願のパラリンピック代表をつかみ取るつもりだ。
敗れはしたが、同じ高校球児出身のサウスポー、3つ年上でパラ陸上歴は2年先輩の山崎とはいいライバル関係だ。この日も試合前に、「一緒にパリに行こう」と山崎に声をかけ、山崎も、「ずっとやられ続けていたので、気合が入った」と話す。
世界の舞台でも互いに刺激し合い、ともに高みを目指す。
男子やり投げではもう一人、クラスはF12(視覚障害・弱視)と異なるが、この日ただ一人大台越えの60m03で制した若生裕太(電通デジタル)にも注目だ。昨年中に派遣標準は突破済みで、自身初となる世界選手権代表を内定させた。
「素直に嬉しい気持ちでいっぱい。この日にピークをもってくるようにやってきて、しっかりと60mを投げられてよかった。世界で戦える選手になれるように、(世界選手権まで)2カ月、しっかりとレベルを高めたい」
4月1日の記録会で60m51のビッグスローを披露し、自身のもつ日本記録(58m51)を大幅に越えた(4月末時点で記録申請中)。東京パラでは4位相当の好記録であり、「60m越え」は世界の表彰台に近づく試金石だ。
1997年生まれの若生も小学1年から野球に取り組んだが、20歳で視力低下や視野欠損などが徐々に進む難病、レーベル遺伝性視神経症を発症。2018年から野球経験が生かせるパラスポーツとしてやり投げに転向し、翌年には日本新を初樹立した。
以降、記録を伸ばし、東京パラ出場も期待されたが、代表入りは逃した。悔しく落ち込んだが、周囲の支えもあり、パリ大会を目指そうと奮起。昨年はじっくりと、スローを大きな動きから低い弾道で鋭く投げるイメージにつくり直し、再現性の向上に専念。腰の故障を機にフィジカル強化にも取り組み、今年の飛躍につなげた。
初の世界選手権に向け、「記録自体は(メダルに)近づいている実感はあるが、上位3選手は1試合のなかで60m台を何本も投げて試合を作っていく。自分はまだ、今日のアベレージも50m台前半、もっと底上げしないと」。練習のさらなる積み上げで、来年のパラ初出場も射止める大台の再現を目指す。
砲丸投げ女子F46(上肢障害)は世界記録保持者(12m47)の齋藤由希子(SMBC日興証券)が11m52で優勝し、突破済みの標準記録と合わせ、世界選手権代表に内定した。
昨年3月に第1子を出産したが、徐々にトレーニングを再開させ、10月には記録会に復帰した。現在も体力や筋力を戻している途上で、とくに下半身の強化が急務だと話すが、「思っていたより順調に、記録も戻せているのは収穫。世界選手権では来年のパリパラリンピックの内定とメダル獲得に向けて頑張りたい」
世界選手権代表は4大会目だが、実は砲丸投げでは初めてになる。多様な障害の選手を対象とするパラ陸上では出場選手数の調整が必要なため、例えばパラリンピックでは2012年ロンドン大会から2020年東京大会まで女子F46クラスの投てきで実施されたのはやり投げだけだった。
そのため、齋藤は専門外のやり投げで悲願のパラリンピック出場に挑み続けたが、世界選手権でも上位に入れず、目標はかなわなかった。
東京パラ後、次のパリ大会での女子F46 投てきはやり投げに加え、砲丸投げの復活が発表された。今回、代表入りが内定したパリ世界選手権で4位以内に入れば、パラリンピック初出場も内定する。
「砲丸投げがパラリンピック種目になったと聞いた時は素直に嬉しかった。でも、今は楽しみよりも緊張感。自分の肩書として『世界記録保持者』というのがあり、パラリンピックには出なければいけない『責任』もあると思っている」
1993年に生まれたときから左のひじ10㎝から先がなく、生後半年から義手を着けた。幼い頃から活発で、中学から陸上部に入り、片手でできるからと砲丸投げを選んだ。高1でパラ陸上の大会にも出場するようになり、高校2年で東日本大震災を経験したが、周囲への感謝の思いも込め大学進学後も陸上競技を続けた。
第一人者としての自負心は強いが、「あくまでも、私は挑戦者。(世界選手権で)メダルの色にこだわるなら、まずは自分自身の過去の記録を超えることが目標。初めて子どもを置いて海外遠征にいくことでの不安感もある。ただ、やるべきことは決まっている。来年のパラの内定取りを達成し、あとは1年間、ゆっくり(パラリンピックのメダルを)取りにいきたい」
世界記録ホルダーが満を持して臨む大舞台で、初のパラ出場を確実にする一投に期待したい。
(※5月12日、日本パラ陸上競技連盟は「パリ2023世界パラ陸上競技選手権大会日本代表派遣選手」を発表。本文記載の4選手はすべて、同代表選手に決定した)
写真/吉村もと・ 文/星野恭子