7月7日から17日までフランス・パリで開催されたパラ陸上の世界選手権で、マルセル・フグ(スイス)が男子車いすT54で800メートル、1500メートル、5000メートルの3種目を制覇、東京パラリンピックに続くトラック3冠を達成した。他の追随を許さない「絶対王者」の走りは、異次元の領域に突入している。強さの秘訣はどこにあるのか。
こんなレースは見たことがない──。10日に行われた男子車いす5000メートル決勝(T54)でのフグの走りを見た人は、口々にそう漏らした。パラ陸上の世界選手権は、パラリンピックと並ぶ世界最高峰の大会である。この日もトップクラスの選手が各国から集まり、激戦を繰り広げるはずだった。通常、車いすのトラックレースは、途中まで集団で走っていた選手たちが、最終盤のどのタイミングでスパートをかけるのかが見どころだ。戦略と勝負所の駆け引きがレースの行方を決める。
ところが、だ。レース開始時に最後尾につけていたフグは、400メートル付近で一気に先頭に立つ。すると、徐々に2位集団を引き離し、やがて独走状態に入った。ゴール近くにたどりつく頃には、フグが周回遅れとなった2位集団の最後尾を捉える位置まで迫ってしまった。最後の50メートルは車いすをこぐことはほとんどなく、右腕を高く上げて余裕のゴール。2位と50秒の差をつける9分35秒の大会新記録で優勝した。フグは、レースをこう振り返った。
「差が大きく開いて、とてもクレイジーなレースだったね。こうなるとは予想していなかった。(レース序盤で2位以下を)引き離そうとしたけど、それは少しリスクがあった。それが最後には大きな差になっていて、驚いたよ。とても特別な瞬間で、これまでのレースでも経験したことがなかったよ」
彼のトップスピードには、誰もついていけない。車いす男子マラソン日本記録保持者の鈴木朋樹は、トップギアに入った時のフグを「(ゲームの)マリオカートの『スター』を使っている状態」とたとえたことがある。この日もまさに無敵のレースだった。
1986年生まれの37歳。すでにベテランの領域に入っている。今年3月のインタビューでは、年齢と体力の変化について「短い時間で一気に強い力を出す瞬発力は年々弱まっていく。ただ、年齢を重ねるごとに持久力はまだ向上する。そこのあたりを総合すると、まだチャンピオンでいられると思う」と話していた。本人の言葉を意訳すると、マラソンのような長距離ではまだ勝ち続ける自信を持っているが、トラックレースは年を重ねると厳しくなっていく。そう言っているように聞こえた。ところが、今大会では800メートルと1500メートルでも優勝し、東京パラリンピックに続いてトラック3種目を制覇した。
先天的な二分脊椎症で下半身を自由に動かせず、幼い頃から車いすで過ごしてきた。車いすレースと出会ったのは10歳の時だった。「たまたま車いすレースに参加したら、とても楽しかった。スピード、ダイナミックさ、そしてレースでは戦略が重要になる。そのすべてを好きになったんです」
大会に出場したことで、後に20年以上にわたってコーチとなっているポール・オダーマット氏と出会った。トレードマークの銀色のヘルメットも、オダーマット氏が10代の頃にプレゼントしたものだ。光を反射するこのヘルメットは、レース中は誰よりも目立つ。ついた愛称が「銀色の弾丸」だった。
冬の期間は1週間で3、4回はフルマラソンの距離を走り、持久力をつける。筋力トレーニングでは器具を使うことは好まず、ウェイトを使うことが多いという。「トレーニング器械を使うと、左右のスタビリティ(安定性)を考えなくなってしまう。それよりも、ウェイトを使って自分の頭で体のバランスを考える方が好きなんだ。頭を使って、体の左右の力をコーディネーション(調整・一致)させるようにしていることを意識している」
レーサーと呼ばれる競技用車いすは、自動車F1でアルファ・ロメオ・オーレンを運営しているザウバー・グループが開発したものを使用している。フグ選手によると、過去に使用していたレーサーに比べて強度が高く、柔軟性は低いという。素材にカーボンを使用しているため重量が軽く、F1マシンの開発で蓄積した空気力学の知見がふんだんに搭載されている。レーサーの性能を極限まで引き出すために、いすの位置を低くしている。
他の選手の身体の動きと比べても、その差は一目瞭然だ。他の選手のように上半身を使って腕に力を伝えようとすると頭が激しく上下するが、トップスピードに入った時のフグの頭の動きは、誰よりも小さい。そのかわりに、タイヤをこいだ後にヒジが高く上がる。上半身の空気抵抗を小さくすると同時に、肩甲骨の柔らかさを活かしてタイヤに与える力を強くしているのだろう。他の選手のフォームとは原理が根本的に異なっているように見える。高性能化するレーサーに合わせ、フォームを適合させた結果、絶対王者の存在を不動のものにした。
今年3月の東京マラソンで圧勝したことに続き、中距離でもマルセル・フグの時代が続くことを予感させる大会となった。それでも挑戦は続く。レース後にフグは「私はまだ、目標を持っている」と語った。彼が目指している風景は、1年後のパリ・パラリンピックで明らかになるだろう。
写真/越智貴雄[カンパラプレス] ・ 文/西岡千史