11月19日、「第42回大分国際車いすマラソン」が行われ、日本のほか、アメリカやスイス、オーストラリア、韓国など14カ国・地域から参加した選手たちが晴天の大分市内を疾走した。最も注目を浴びたマラソン男子(T34/53/54)では、銀色のヘルメットを着用することから“銀色の弾丸”の異名を持つマルセル・フグ(スイス)が自身が持つ世界記録に迫る好タイムで5大会連続11回目の優勝に輝いた。またマラソン女子(T34/53/54)はハイペースのレースとなり、2秒差で3選手がゴールする接戦を繰り広げた。
暴風が吹き荒れた前日とは一転、この日は青空が広がり、穏やかな天候となった。今大会は例年ゴール地点となっているジェイリース・スタジアムが改修工事のため、競技場内でのトラック勝負はなく、スタジアム脇のロードにゴールが設けられた。そのため、トップスピードのままゴールに向かうことができるという利点があり、その分、記録も狙いやすいとされていた。マラソンの部では、その期待通りの好タイムが誕生した。
10時、号砲とともにレースがスタートし、ランナーたちは大分県庁前を勢いよく飛び出した。後ろに長く続く集団をけん引するかのように、まず最初に先頭に立ったのはアジア記録保持者の鈴木朋樹だった。
「スタート直後はマルセルは先頭には行かないだろう。とすれば、中国の選手が行くか、あるいは自分が行くか……」
そんなふうに考えていたという鈴木は、スタートして走り始めると自然と体が動き、気づけば先頭に立って走っていた。そしてすぐ後ろには、絶対王者のフグが様子を見るようにしてピタリと付いていた。
大分国際車いすマラソンでは3つの橋を通り、そのうち2つの橋の上り下りを繰り返すようにして周回する。その最初の舞鶴橋の途中、ちょうど1キロ地点でフグが鈴木をかわしてトップに立った。この時点ではまだ鈴木や渡辺勝など日本人選手に、20歳の新鋭ラ・シンデン(中国)を加えた5人がフグの後につけていた。
レースが大きく動いたのは3.5キロ地点でのことだった。下り坂を利用してスピードを上げたフグに対し、誰一人ついていくことができなかったのだ。フグは5キロ手前、全長500mある弁天大橋の上り坂でさらに後続を引き離し、早くも独走態勢を築いた。9分12秒と世界記録(1時間17分47秒)更新のペースで5キロを通過したフグは、その後も沿道からの声援と拍手の中を快走し続けた。
一方、第2集団は吉田竜太、ラ、それに弁天大橋の下り坂を利用して2人に追いついた鈴木が加わり、3人に絞られていた。「まだマルセルに追いつけるかもしれない」と思いながらペースを落とさないようにしたという鈴木は、11キロ過ぎ、弁天大橋の上り坂でアタックをかけた。すると、まずは吉田がふるい落とされ、さらにその後、14キロ過ぎにはラも後れをとり、鈴木が単独2位となった。しかし、その時すでにはるか前を行くフグとの差は700m以上となっていた。
「折り返しのたびに、マルセルがどの位置にいるかはわかっていたので、どんどん離されているということは気づいていました。ただそこで気持ちを切らさず、当初から目標としていたシーズンベストはしっかり切ろうと思いながら走り続けました」
その鈴木のはるか前を走るフグは、下り坂では車速47キロ台を計測するなど、とても2、3日前に風邪を引いていたとは思えないほどの走りを見せていた。しかし40キロを通過した時にはややペースが落ち、世界記録を樹立した2年前から9秒遅れとなっていた。それでも最後は、残ったすべての力を出そうとするかのように猛然とスピードを上げ、王者の貫禄を見せた。結果は、1時間17分51秒。今季すでに達成していた800m、1500m、5000mに続いての世界記録更新とはならなかったが、今大会も他を寄せ付けない圧倒的な走りで観客を魅了した。
2位は鈴木。30キロ近くの長い距離を一人で走り「自分自身との闘いだった」と言う鈴木はフグには6分07秒の大差をつけられたが、今年3月の東京マラソンでの1時間24分31秒を上回る1時間23分58秒でゴールし、目標としていたシーズンベスト更新で今季を締めくくった。
不本意な結果に終わった今年7月の世界選手権後、不足していると感じた体のキレを取り戻すトレーニングをしてきたという鈴木。一度は離されながら第2集団に追いつき、後半には引き離して日本人トップでゴールした今大会は「成果として評価したい」としながらも、こう本音を漏らした。
「欲を言えば、マルセルと走りたかったです」
世界王者との差は縮まるどころか、さらに開きつつあることは鈴木も十分にわかっている。だが、決してその背中を追うことをやめるつもりはない。新しいレーサーのセッティングも完了し、さらなる進化への追い風も吹いている。1年を切ったパリパラリンピックに向けて、ここからが正念場だ。
今大会、最も伸びしろを感じさせたのが、27歳の岸澤宏樹だ。これまでトラックを専門とし、フルマラソンは今回が3回目、大分での42.159キロは初めてだったという岸澤だが、渡辺や樋口政幸といった国内トップランナーたちと同じ集団で走り、終盤までしっかりとついていった。最後の折り返しの後、集団からやや後れを取ったものの、9位でフィニッシュ。日本人では5位という好結果に、本人も「想定以上の出来だった」と笑顔を見せた。
中学時代から陸上部に所属し、障がいを負った大学3年までハードルの選手だった岸澤は、反射神経や瞬発力に自信を持つ。その能力を生かした走りで、今年10月のアジアパラ競技大会では初めて日本代表入りし、800m、1500mに出場した。そして自身の能力を最大限に生かそうと、今後はマラソンをはじめとする長距離にも挑戦していこうと考え、今大会はそのスタートだったという。
「自分の今の実力で、国内トップクラスの選手たちと一緒に走るところまでいけたというのは、とても大きな収穫でした。これからもっと練習をして、(日本人トップの)鈴木(朋樹)選手のところまで上がっていきたいですし、世界で勝負できるようになりたいです」
昨年から岸澤を指導し、トレーニングパートナーも務める久保恒造も「短期間でここまで伸びるというのは想定外。まだまだ課題はありますが、伸びしろを考えるとこれからが楽しみ」と期待を寄せた。来年5月、神戸で開催される世界選手権に出場することが、次の目標だ。
女子(T34 /53/54)では、海外勢による三つ巴の戦いが注目を浴びた。大分で6回の優勝を誇る38歳のマニュエラ・シャーと、昨年プロに転身し、今季はベルリン、シカゴ、ニューヨークと世界6大大会で3連覇、ベルリンでシャーの世界記録を更新した28歳のカテリーヌ・デブルナーのスイス勢。そしてアメリカのエース、32歳のスザンナ・スカロニの3人だ。
「ここ3、4年で女子のレベルが上がってきていて、競争力が高まっている」というシャーの言葉通り、お互いにローテーションを繰り返しながらハイペースで走り続けた3人は、最後まで一歩も譲ることなくしのぎを削り合った。その結果、3人いずれも19年にシャーが樹立した大会記録を上回るタイムでゴール。道幅が狭く、すぐ前には男子選手がいるという接触の危険性をかわしながらの難しいフィニッシュとなったなか、最後はシャーとデブルナーとのスイス勢同士の一騎打ちに。その結果、1時間35分11秒の同タイムとなったが、判定の結果、1位はデブルナーとなり、初出場で初優勝。シャーは2位となった。そして、わずか2秒遅れでゴールしたスカロニが3位となった。
また、昨年世界記録(2時間22分33秒)を樹立した男子T51のピーター・ドゥ・プレア(南アフリカ)は、「スタート直後はまだ体が目覚めていない感じがしていた」と言い、タイムこそ1年前とは程遠いものだったが、2位に9分以上の差をつける圧巻の走りで7連覇を達成。「自分だけでなく家族のサポートのもとにトレーニングができ、今ここにいる。だから家族の前での優勝はかけがえのない瞬間」と喜びを口にしたプレア。来年はパリパラリンピックへの出場、そして大分での8連覇を達成したいと意気込んだ。
そして、今年4月に亡くなった元世界記録保持者で、恩師でもあるハインリッヒ・クーベールさん(ドイツ)についてこう語り、偲んだ。「彼は私にとってとても特別な存在でした。ドイツで一緒に過ごしたこともあり、競技を始めたばかりの頃はいろいろなことを教わりました。昨年、彼の世界記録を塗り替えた時も彼は応援してくれていました。彼こそが本物のチャンピオン。今日も天国から応援してくれていたと思います」
男子T33/52では、上与那原寛和が前回覇者の佐藤友祈との日本人対決を制し、4年ぶり4回目の優勝を果たした。
ハーフマラソンの部では、男子T34/53/54で生馬知季が5キロ時点ではトップに立っていたが、10キロ時点では5番目に後退。トップからは7分近く差をつけられたが、そこから驚異の追い上げを見せて終盤に再びトップに立った。最後は2位に4分近く差をつけての圧勝で、3連覇を果たした。女子は、パラアルペンスキーとの二刀流で夏冬のパラリンピック出場経験を持つ村岡桃佳が連覇。男子T51では長﨑裕也、男子T33/52では伊藤竜也が優勝。女子T33/52は田中照代が制し、木山由加の15連覇を阻止した。
今大会には日本を含めて15カ国・地域から、男女あわせてマラソンには61人、ハーフマラソンには115人、あわせて176人が参加。海外勢は昨年の25人から43人に増加した。コース沿いには大勢の観客が詰めかけ、世界のトップランナーや市民ランナーたちの走りに声援と拍手が送られた。大分の街にいつもの光景が完全に戻ったことを告げていたようにも感じられた今大会。ランナーたちのそれぞれの熱き闘いに沸いた一日となった。
写真/越智貴雄・ 文/斎藤寿子