4年ぶりの開催となる「ヒューリック・ダイハツ Japanパラバドミントン国際大会2023」が国立代々木競技場第一体育館で開かれた。パリ2024パラリンピック選考の対象大会のひとつで、36の国・地域から、約200人が参加。日本からは男女合わせて19人が出場し、各クラスで頂点を争った。今回は、10代の若手選手や競技歴が浅いながらも実力を伸ばしつつある次世代アスリートたちに注目。緊張感あふれる公式戦初出場の選手から、パラリンピック出場を目指す選手まで、それぞれの戦いを紹介する(下記選手の所属は日本パラバドミントン連盟)。
車いすWH1男子は27歳の飯塚裕人と29歳の大山廉織がエントリー。飯塚は大学4年の時のバイク事故で、また大山は2019年に病気のため車いす生活になった。両者ともバドミントン経験者で、培ったラケットワークやセンスを発揮してメキメキと頭角を現している。今大会は世界の強敵と渡り合い、それぞれシングルスで決勝トーナメント進出を果たした。
実は、大山はより障害が軽いWH2の選手だったが、大会前のクラス分けでWH1となった。同じ車いすクラスでもラリーや展開の速さの違いがあるため「WH2だったから勝てるわけではなく、プレーに戸惑った」ことを明かす。それでも気持ちを切り替えて、新しいステージで最後まで戦い抜いた。また、飯塚と大山はペアを組んで男子ダブルスにも出場。予選リーグでは、東京2020パラリンピック(以下、東京2020大会)金メダルペアで、先日の杭州アジアパラ競技大会も制した屈子墨 ・麦建朋(中国)組との対戦が叶い、ふたりは「ショットの精度の高さや忍耐力などを学んだ。チャンピオンの中国ペアと対戦できただけでも、出場した意味がある」と話した。
低身長SH6男子のシングルスに出場した上野智哉は、今大会が初の国際大会。ドロップでつないでラリーに持ち込む粘りのプレーが身上で、予選リーグではブルネイの選手に競り勝ち1勝2敗とした。決勝トーナメント進出は逃したが、海外勢とのパワーやフットワークの差を肌で感じ、「足りないところを強化して今後につなげたいと、改めて思った」と、顔を上げる。
もともと趣味でプレーを楽しんでいたところ、東京2020大会でパラバドミントンが正式競技に採用されたのを機に、本格的に競技に取り組み始めた。これまで国内の低身長クラスは男女とも競技人口が少なく、強化指定選手の畠山洋平(CCCMKホールディング)がひとり奮闘している状況だ。今回はそこに上野が加わり、日本人のエントリーは2人に。畠山も「彼と同じ大会に出られることが嬉しい」と歓迎する。20歳の上野は、このジャパン国際での経験を飛躍の足がかりとしたいところ。これからの活躍を楽しみにしたい。
下肢障害SL4女子シングルスには、20歳の澤田詩歩が出場した(大会時点では19歳)。杭州アジアパラで敗れた東京2020大会銀メダリストのレアニラトリ・オクティラ(インドネシア)と再戦した準々決勝は、痛めていた左膝の怪我の影響で、第1ゲーム終了後に棄権を選択する悔しい幕切れとなったが、次世代アスリートのなかでは最高のベスト8の成績を残した。
澤田は先天的な両手指欠損と右脚ひざ下欠損で、競技用義足をつけて戦う。高校3年で出場した2021年のアジアユースパラ競技大会(バーレーン)のシングルスで金メダルを獲得。世界ツアーには今季から本格的に参戦しており、2月のスペイン国際やタイ国際でもベスト8まで勝ち上がるなど、今後のさらなる活躍が期待される選手のひとりだ。澤田は大会後、「怪我をしっかりと治して次の大会で頑張りたい」と、復活を誓っていた。
車いすWH1の17歳・友寄星名は、女子シングルスの予選リーグで東京2020大会と杭州アジアパラの銅メダリスト・尹夢璐(中国)と対戦。前後に揺さぶられストレートで敗れたものの、「ラリーで粘ることはできた」と手ごたえを口にする。先天性の二分脊椎で、中学1年の時に部活動で競技をスタート。高校2年の現在は、放課後を利用して週に5~6回はパラバドミントン専用コートがあるヒューリック西葛西体育館で男子の飯塚や大山らとともに練習に励んでいる。同じクラスには、今大会でも優勝を果たした“絶対女王”の里見紗李奈(NTT都市開発)がいる。「学ぶところがたくさんある。尊敬しているし、いつか追いつくことを目標に頑張りたい」と、目を輝かせた。
日本パラバドミントン連盟(JPBF)が競技人口の拡大や技術向上、将来的に国際大会で活躍できる人材を育てる独自の事業「パラバドアカデミー」生も奮闘した。下肢障害SL3女子のシングルスに出場した19歳の束原菜々香と20歳の武田佳乃だ。それぞれ、今年4月にJPBFが開いた体験会に参加したことがきっかけで本格的に競技をスタートさせた。
ふたりは今年6月の渋谷オープンなどには出場経験があるものの、公式戦の出場は今大会が初。そのデビュー戦がいきなりジャパン国際となり、世界のトップ選手と打ちあった。緊張から動きが硬く、1勝を挙げることはできなかったが、貴重な一歩を踏み出した。
写真/植原義晴 ・ 文/荒木美晴