アジアの国々では、障害者がスポーツを楽しむ環境が整っていない国は今でも多い。その一つが、東南アジアの中で経済発展が遅れている国の一つであるラオスだ。人口は約730万人、多くの山々が囲まれて海がなく、その利便性の悪さと長引いた内戦、市場経済の導入の遅れが発展を停滞させてきた。しかし、現在では順調に成長を続けていて、有望な投資先として世界から注目されている。この国で、一人の日本人がパラスポーツの普及に人生を捧げている。
「僕はね、彼らに『障害者になってよかった』って思えるような人生を送ってほしいんですよ」
パラスポーツの普及が遅れているラオスで陸上のコーチを務める羽根裕之さんは、こう話す。自身も37歳の時、運送会社でのベルトコンベアーの作業中に左腕を挟まれ、二の腕部分で切断した経験を持つ。切断後の手術で縫合はできたが、神経が抜かれているために感覚はなく、自由に動かすことはできない。
事故後は荒れた生活になり「いつ死んでもかまわない」と思うようになった。運転中に気に入らない車に遭遇すると、わざと車を止めて運転手にケンカをふっかけたこともある。会社の都合で仕事も失い、日常生活ではトラブルが絶えなかった。
「会社を辞めても、障害者になったことで年金の支給やいろんな免除制度があるので、何とか生活はできそうだとは思っていた。だけど、今考えると『生きることの意味』を完全に失っていたんですよね。この世で自分が一番不幸な人間だと思っていた」(羽根さん)
そんな生活を一変させたのが、パラスポーツだった。
仕事を探すためにインターネットで情報を探していると、たまたまパラ陸上のページにヒットした。中学生の時に野球部に入っていた羽根さんは、陸上の大会に誘われて800mに出場すると、あっさりと優勝してしまうほど抜群に運動神経がよかった。陸上の推薦で高校に入学すると、400メートルハードルでジュニア・オリンピックで5位に入賞。卒業後も一時は社会人アスリートとして活動していたこともあった。
そんな羽根さんは、当時のパラ陸上の日本記録をみて「自分の方が速い」と思ったという。奇妙な自信から、大会に出場することになった。その時には事故から1年が経過していた。「ところが、練習を始めると体が動かないわけです。もう、こんなに走れないものなのかと絶望してしまいました。それでまた、競技にのめり込んでしまった」
そうはいっても、さすがは高校生の時に全国レベルで活躍した選手である。障害者になったことをきっかけに競技に復帰すると、あっという間にパラ陸上の世界で頭角をあらわし、三段跳びではロンドンパラリンピックの強化指定選手になった。実は、羽根さんは、将来を嘱望された10代の頃、実業団の選手としてアスリートとして活動していたが、契約に関するトラブルが理由で実働1年で引退を余儀なくされ、不完全燃焼のまま競技生活を一度終えた経験がある。最終的にはパラリンピック出場の夢は叶わず、二度目の引退を決意したが、今回は後悔はなかった。若い頃に感じた世の中への理不尽さは消えていた。「陸連の選手登録をやめた時は少し寂しかったですけどね。でも、思い残すことは何もありませんでした」
その後、趣味で陸上競技を続けながら会社勤めをしていた。ところが、この時に再び羽根さんに試練が訪れる。国から難病指定されている多発性筋炎にかかったのだ。発症者のうち、約1割は死にいたる病だ。
「この時に人生で初めて死を意識しました。もう、このまま死んだら面白くない。それなら、やりたいことはやろうと思ったんです。それで、自分の経験を誰かに還元したいなと考えた時に、荒れた生活を送っていた時にパラスポーツに出会って人生が変わった。でも、日本にはそんな経験を話す人はたくさんいるから、もっとパラスポーツが普及していない国に行って、そのことを伝えたいと思うようになったんです」
そんなことを考えている時に、NPO法人「アジアの障害者活動を支援する会」(ADDP)に出会った。スタッフとしてアジアのパラスポーツのコーチとして派遣してもらうことをお願いすると、赴任地がラオスになった。会社も辞めて裸一貫、2015年に49歳での人生再スタートだった。
ラオスで出会ったのは、視覚障害のあるケーン・テープティダーとゴン・テープティダーの兄弟だった。パラリンピックの出場を目指していた二人は、ちゃんとしたコーチもいないまま、独学で練習をしていた。赴任してすぐに、羽根さんはコーチとして練習内容から生活習慣のすべてを見直すことから始めた。
「ストレッチをするにしても、ただ伸ばしているだけで、目的がない。食生活も、炭水化物を摂りすぎていて、タンパク質を意識していなかった。そんな基本的なことからはじめて、最初は言葉もわからないので、手や足の動かし方の指導も、まさに手取り足取りでやるしかなかった。とにかく、形だけをマネして、効果がわからないまま練習を続けていることが多かったので、それを理論的に『なぜ、必要なのか。なぜ、必要ないのか』を説明することを徹底しました」
羽根さんの指導を受けて、選手たちは実力をつけはじめた。特に、ケーンは英語も独学で習得し、海外遠征にも臆することなく行けるようになった。
一方で、発展途上国ならではの課題にも直面した。ラオスには、陸上用のスパイクで走ることのできるトラックは十分に整備されておらず、国際的に認められる記録の計測機器もない。手動のストップウォッチではパラリンピックの参加標準記録を突破していても、国際大会に出場しなければ資格が与えられない。陸上に限らず、ラオス国内にはパラリンピックに参加できる実力のある選手はいても、環境面の遅れから断念せざるをえないことも多かった。東京パラリンピックに出場できたのも、出場権を誰も得られなかった国に与えられるIPC(国際パラリンピック委員会)の特別枠に推薦されたケーン選手だけだった。
選手たちや競技関係者の経験も不足している。昨年10月に中国で開催されたアジアパラ杭州大会では、ケーンとゴンの二人ともエントリーした。ところが、100m予選のコール(召集)時間に2分遅れてしまい、出場権を取り消された。理由なしの棄権であったため、他の種目のエントリーもすべて取り消されてしまった。後になってわかったことは、選手に同行した関係者がコール時間の開始時間と終了時間を間違えて二人に伝えていた。羽根さんは「コール時間には絶対に遅れないようにと何度も言っていたのに……」とあきれるが「ラオスの人は良くも悪くも過去の失敗を気にしない。今回のことを次につなげるしかない」と前を向く。
ケーン選手にとって、羽根さんはどういう存在なのだろうか。「私にとって羽根さんは、コーチであり、先生であり、いろんなことを教えてくれる先輩で、家族のような存在です。ラオスの今の状況では、国際大会に出場するにも様々な問題があります。練習や大会参加のための予算も少ない。羽根さんは、そういった問題に多くの時間をさいて、ラオスのアスリートを助けてくれている。羽根さんは、アメージング(驚愕)なコーチです」
羽根さんは現在、ラオスで義足の陸上選手の指導も始めた。58歳になった羽根さんは、今も新しいことに挑戦中だ。「僕は障害者になって人生が180度変わった。それまでの友達で、僕が人助けのために働くなんて誰も考えてなかったでしょうね。自分が一番びっくりしてるんですよ。こんなまっとうな人間になってしまって(笑)」
写真/越智貴雄[カンパラプレス]・ 文/西岡千史