スポーツライターすしこが、日本や世界を旅して車いすバスケットボールの魅力を伝えるシリーズ連載「すしこが行く!車いすバスケの旅」が再開!今回はチーム発足45年、北海道ブロックでは最古のクラブチームである札幌ノースウィンドをピックアップ。チーム結成の背景や活動目的・目標、注目選手を紹介する。
チームが発足したのは、1979年。札幌市障害者協会の当時会長が立ち上げたのが始まりだ。実は道内には、それ以前に車いすバスケットボールのクラブチームが存在していた。美唄市にあった労災病院(現・北海道せき損センター)で結成されたクラブチームだ。ケガをして労災病院に入院した患者たちが、リハビリの延長として病院内の体育館で車いすバスケをし、チームを作ったのが始まりとされている。同チームはすでに解散しているが、「ピパイオカップ車いすバスケットボール選手権大会」を開催するなど、現在もセンターは障がい者スポーツの活動に深く関わっている。
そして美唄市のチームが解散後、労災病院を退院して札幌市に戻ってきた人たちが車いすバスケを続ける環境を求め、札幌市にチームを発足。それが、札幌ノースウィンドの前身だ。「札幌ノースウィンド」というチーム名となったのは、今から20年ほど前で、当時のキャプテンが名付けた。
現在は、21人の選手・スタッフが所属。そのうちJWBF(日本車いすバスケットボール連盟)に登録の選手は15人で、30~40代が中心だ。最年少は高校3年生健常者プレーヤーの中村浩人(4.5)。また5人いる20代の中には、女子ハイパフォーマンス強化指定選手の碓井琴音(4.5)が在籍している。そのほか、小学生や、まだ競技を始めたばかりの練習生も3人いる。プレーイングマネジャーの岩﨑圭介ヘッドコーチ(2.0)によれば、過去には選手5人という時期もあり、現在は非常に活気がある状態だ。
それでも碓井や学生を除き、社会人のメンバーはフルタイムで仕事をしており、平日のチーム練習は火曜日と金曜日の週2回、夜に1時間半ほどに限られている。週末もあわせれば3、4回ほどになるが、人数がそろわないことも少なくない。また、練習試合や大会に参加するにもほとんど会場は本州のため長距離移動となり、費用面での負担も小さくない。そうした北海道ならではの地理的な厳しさもある。そんななかでも競技を続けていることを考えれば、メンバーたちの車いすバスケへの情熱がいかに大きいかがわかる。
チームスローガンは「DO MY BEST ~常に最善を尽くす~」。掲げたのはチームの指導者である岩﨑HCで、自らの経験をもとにした強い思いが込められている。
岩崎HCが車いすバスケを始めたのは、20歳のとき。仕事中にケガをし、車いす生活になった際、リハビリの一環として車いすバスケに出会ったのがきっかけだった。退院後も続けたいと思い、入団したのが札幌ノースウィンドだ。退院後、大学卒業後の就職を機に札幌を離れて網走に移り住んだが、週末には札幌まで片道300キロ以上を、自ら運転する車で約5時間かけて通った。
2年後には平日の練習にも参加できる環境を求めて、網走から最も近い釧路のチームに移籍。それでも約150キロを車で約3時間かけて平日に往復するのは容易なことではなく、思うように練習時間を確保することはできなかった。
「当時はまだ会社に入りたてで、仕事も定時には終わったので、夕方には独身寮に帰ることができました。だから時間はたっぷりあったんです。でも練習する場所がなく、港で一人釣りをしながら堤防に向かってパスをしたりドリブルしたり、時には外国人に追いかけられてダッシュしたりすることもありました(笑)。ただその時から思っていたのが、“ベストを尽くす”ということ。練習環境がなくても、今ここでできることを精一杯やろうと思っていました」。その後、30歳の時に異動のために札幌に移転したのをきっかけに、再び札幌ノースウィンドに入団した。しばらくすると、ある思いがわいてきた。
「札幌では定期的に体育館を確保して練習できる環境があり、とても充実していました。それで、ふと思ったんです。この環境に慣れてあぐらをかいてしまってはダメだなと。当時キャプテンを務めていたこともあって、この環境のありがたさを忘れずに活動していくチームにしていきたいと思い、“DO MY BEST”というスローガンを掲げました」
札幌ノースウィンドが目指すのは、天皇杯本戦出場だ。出場チームが前年優勝チームと予選を勝ち抜いた7チームの計8チームと狭き門となった2018年以降、北海道ブロックからは一度も出場がなく、札幌ノースウィンドとしては2017年以来の出場を目指す。コロナ禍で中止が続いていた天皇杯が再開した2022年は、北海道ブロック一次予選会を勝ち抜いたが、東日本第二次予選会では初戦敗退。昨年は一次予選会で姿を消すなど、厳しい状況が続いている。
しかし、チームには明るい材料もある。著しい成長を見せている若手の存在だ。その一人が、今年大学を卒業し、4月から新社会人となった22歳の三田健斗(2.0)だ。小学3年生の時に1年間だけ、月に一度の車いすバスケの体験教室に通っていたことがあったという三田。楽しさは感じてはいたものの、当時はそれほど強く興味を持たなかった。
その後スポーツから離れていたという三田が、再び車いすバスケの世界に足を踏み入れたのは、約10年後の19歳のとき。大学進学のために千葉にある実家を離れ、北海道で一人暮らしを始めたのがちょうど2020年。新型コロナウイルス感染症の影響で大学に行けないどころか、外出さえもできない日々が続き、自然と自宅で何かを考える時間が増えていった。そんな時、ふと思い出したのが、小学生の時に通っていた車いすバスケ教室での思い出だった。「今考えても不思議なのですが、それまではほとんど思い出したことがなかったんです。でもオンライン授業のほかに何もやることがなくて、物思いにふけっていた時に、ふと“そういえば”と思い出しました。それで気になってネットで調べたところ札幌にチームがあることがわかったんです」
高校までスポーツにはほとんど興味がなかったという三田が、車いすバスケに関心を寄せたのには、こんな理由があった。「僕はずっと一般の学校に通っていたので、友だちも健常者ばかりで、それまで障がい者同士のコミュニティに参加したことがほとんどなかったんです。だから大学で法律を学ぶうえで、実際にそういう場所にも参加してみたいと思っていました。それで思い出したのが車いすバスケ。ちょうどコロナで散歩もできずにいたので、体を動かすにもいいかなという感じでした」
しかし、なかなか勇気が持てず、実際に現地を訪れたのは、初めてチームに連絡をしてから数カ月後のこと。その日行われていた練習試合の見学に訪れた。車いすバスケを見たのは10年ぶりのことで、はじめは懐かしさだけだったが、そのうちに「やりたい」という気持ちがどんどん膨らみ、その場でチームに入ることを決めた。
それ以降、やればやるほど「うまくなりたい」という気持ちが強くなり、そして実際に「上達している」という成長も感じているという三田。これほどまでに車いすバスケに魅了されるとは、高校までの自分には全く想像できなかった。
昨年は初めてU25日本選手権にも北海道・東北ブロック選抜チームの一人として出場するなど、着実に実戦経験を積み重ねている。将来的な夢は、日本代表としてパラリンピックに出場すること。そのためにも、持ち味であるスピードとスタミナに磨きをかけている。
写真・ 文/すしこ