四国の温泉施設に併設された瀬戸内温泉スイミングスクール。ここでは、子どもから大人までが、それぞれに設定した目標に向けてトレーニングに勤しむ。その中で、ひときわダイナミックな泳ぎで存在感を見せるのは、身長1m86cm、足のサイズ30cmという、恵まれた体格をもつ山口尚秀選手だ。東京パラリンピック100m平泳ぎ(知的障害クラス)で金メダルを獲得、世界選手権も3連覇中の最注目選手である。
3歳で知的障がいを伴う自閉症と診断され、小学4年の時からスイミングスクールに。「自分にとって水泳は、自分の有する能力を最大限に発揮できる存在であると思います。得意なことと不得意なことの差が激しい中で、自分の得意なところを伸ばしていきたいと思う意味でも、水泳は欠かせない存在です。」とハッキリとした口調で答える。
現在は「平泳ぎでは、1ストローク後に1キックしてからの重心移動。それを意識して、より前に進む練習。」「ストロークでは、スカーリングという、腕の部分だけで水の感覚を捉えることを意識した練習。」といったトレーニングを、重点的に行っている。
さらに、得意の平泳ぎ以外の種目にも力を入れたいという。日本代表チームが最終決定するが、パリでは、平泳ぎに加え「100mバタフライ」「100m背泳ぎ」「リレーでの100m自由形」「200m個人メドレー」への出場の可能性がある。特に背泳ぎと自由形は、東京大会では出場しなかった新たなチャレンジで、東京大会で4位だったバタフライでは「腕のキャッチを意識するための独自の練習」に取り組んでいる。水泳は“自分の可能性を広げる翼”だから、山口の挑戦は止まることがない。
2019年、ロンドンの世界選手権で世界新記録を樹立し優勝を決めた。ゴール直後、山口は合掌しながら「ありがとう」と、まわりへの感謝を口にした。その姿に多くの観客が感銘を受け話題になった。その大会での観客の盛り上がりが、とても印象的だったという。「すごい歓声でした。日本だと野球やサッカーの大一番の試合の応援みたいな。イギリスでは、パラ水泳がエンターテイメントとして捉えられているなという、文化の違いを感じました」
欧州では、オリンピックとパラリンピックが別の扱いを受けないことが一般的だという。「イギリスでは、オリンピック競泳とパラ競泳は一体となって活動していて、選考会も同時に行われます。だから、オリンピック選手とパラ選手とが交流する機会も多いんだと思います。こうした状況は、水泳選手の視野を広げ、世界観によい影響を与えると思います。実際ぼくも、オリンピックの選手、オリンピック出場経験者と一緒に練習したことがあり、よい経験になりました。日本もそういうふうに進化していけば、もっとパラスポーツが広がるんじゃないかと思います」
「東京は、コロナ禍で無観客のパラリンピックでしたが、自分の練習の成果を出し切ろう、出るからには金メダルを取ろう、と思って臨みました」。その結果、見事に金メダルを獲得し、自身の世界新記録を更新することができた。
パリパラリンピックは2連覇がかかる。「平泳ぎで金メダルを取りたいのはもちろんですが、他の種目でもベストパフォーマンスを発揮して、メダルを獲得したいと思っています」。平泳ぎでは、自身の持つ世界記録を更新しての金をめざす。
「パリを含むヨーロッパでは、障害者スポーツが盛んです。選手も組織も、パラスポーツの強化に集中的に取り組んでいるので、パリ大会は最高峰のパラスポーツイベントになるかと思います。そういう中で自分のベストパフォーマンスを発揮して、大会に貢献できればいいですね」。大会への貢献にも目が向いているところが山口らしい。ロンドン世界選手権のときも「パラ競泳をつくってくれた人や、この大会を用意してくれた関係者や審判など、多くの皆さんに感謝しています。」と語っていた。
穏やかな表情の奥に、強い意志が見え隠れする。笑顔が次の大舞台でどんな輝きを放つのか、パリでの挑戦が今から待ち遠しい。
【山口尚秀】
やまぐち なおひで●2000年10月28日生まれ、愛媛県今治市出身。3歳の時、知的障がいを伴う自閉症と診断される。小学校4年生からスイミングスクールに通う。高校1年生で全国障害者スポーツ大会に出場してから、パラ競泳を本格的に目指す。2019年の世界選手権では、男子100m平泳ぎで世界記録を更新し優勝。東京2020パラリンピックでは同種目で世界記録を再び更新して金メダルを獲得。四国ガス所属。
【越智貴雄】
おち たかお●1979年、大阪府生まれ。大阪芸術大学写真学科卒。2000年からパラスポーツ取材に携わり、これまで夏・冬、11度のパラリンピックを撮影。2004年にパラスポーツニュースメディア「カンパラプレス」を設立。競技者としての生き様にフォーカスする視点で撮影・執筆を行う。写真集出版、毎日新聞の連載コラム執筆に加え、義足女性のファッションショー「切断ヴィーナスショー」や写真展「感じるパラリンピック」なども開催。ほかテレビ・ラジオへの出演歴多数。写真を軸にパラスポーツと社会を「近づける」活動を展開中。
取材・撮影/越智貴雄[カンパラプレス]