2026年10月、名古屋を中心にアジアパラ競技大会が開催される。パラリンピックのアジア版でもあるこの大会は18競技が実施され、45カ国から3600〜4000人の選手団が参加する予定だ。同アジアパラ競技大会は、2010年に中国・広州で第1回大会が開催され、第5回となる名古屋大会は、日本で初の開催となる。
だが、大会運営にはすでに暗雲が漂っている。アジアパラの予算は当初、約150億円と想定されていたが、200億から230億円にまで積み上がった。アジアパラ前に開催されるアジア大会も物価高騰などの影響で大会開催費用が増加していて、経費削減のために選手村の建設が断念された。大会のスローガンは「IMAGINE ONE HEART こころを、ひとつに。」だが、大会関係者の幹部から聞こえてくるのは「簡素化」「合理的」といった運営面の「カネ」の話ばかりだ。巨額の税金を投入して開催する一大スポーツイベントであるにもかかわらず、アジアパラを通じていったい何を実現しようとしているのか。その理念はいまだに見えてこない。
道に迷った時には、迷った地点まで戻るのが原則だ。では、アジアパラの原点とは何か。
アジアパラの前身であるフェスピック(FESPIC=極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会)の第1回大会は、1975年に大分県別府市で開催された。それは、パラスポーツの普及に人生をかけた人たちが、熱い想いを持って実現したものだった。
その中心人物が、「日本のパラスポーツの父」と呼ばれる中村裕博士である。中村博士は1927年に大分県別府市に生まれ、九州大学医学専門部(現在の医学部)を卒業して医師になった。
人生の転機が訪れたのは1960年。当時、国立別府病院整形外科科長として医療に携わっていた中村医師は、リハビリテーションの研究を目的に米国とヨーロッパに派遣され、同年5月に英国のストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷者センターに留学した。
そこで見た光景は驚くべきものだった。同病院のルートヴィヒ・グットマン博士は、脊髄損傷者の身体回復機能の医療プログラムに、スポーツを取り入れていたのだ。日本では四肢障害者は安静が治療の中心の時代だ。「リハビリテーション」という言葉すら、まだ日本で広まっていなかった。戦争によって障害を受けた人がたくさんいたのは、英国も日本も同じだ。ところが、そういった人たちへの医療者の接し方は、まったく異なるものだった。
帰国後に中村博士が障害者の自立支援のために設立した社会福祉法人「太陽の家」職員の池部純政さんは、こう話す。
「グッドマン博士のもとには、それまでにもスポーツを通じたリハビリを学びにきた日本人医師がたくさんいたそうです。中村先生は、病院を離れる時にグッドマン博士に『この病院で学んだポリシーを日本でも実践します』と約束したのですが、グッドマン博士からは『君と同じようなことを言った日本人の医師はたくさんいたが、いまだに誰も実行していない』と言われました。しかし、中村先生は他の日本人医師とは違い、障害者によるスポーツの普及に人生を捧げました」
中村博士は、帰国後すぐに準備に取り掛かる。1961年10月に「第1回大分県身体障害者体育大会」を成功させ、1964年11月には東京パラリンピックを開催した。なお、公式記録では1960年のローマ大会が「第1回パラリンピック」として記録されているが、これは1989年にIPC(国際パラリンピック委員会)が設立されてから認定されたもので、パラスポーツの国際大会として「パラリンピック」の呼称が使用されたのは、東京が初めてだった。
東京パラを成功させた中村博士は、新しい国際大会の構想を練り始める。それこそが、パラリンピックのアジア版であるフェスピックだった。その最大の目的は、パラスポーツの普及が遅れていた東南アジアやオセアニアの開発途上国に大会参加の機会を提供し、国際的な交流を深めることだった。
中村博士の願いは、すべての身障者にスポーツの機会が与えられること。その理念について彼は、「ヤシの木の下でも開催できる大会にしたい。どんな貧しい国でもホストカントリーになれる大会にしたい」と語っている。
フェスピック開催を決意した中村博士は、東奔西走する。まずは大分県の協力を取り付け、国を説得するために厚生省(現在の厚生労働省)の官僚、日本障害者スポーツ協会などパラスポーツの関係者と面会を続けた。大会準備委員長にも就任していたため、海外に飛んでは各国のパラスポーツ関係者と協議を重ねた。
しかし、ここで思わぬ障害が立ちはだかる。英国で身障者がスポーツをすることの意義を教えてくれたグットマン博士が、大会に車いすの脊髄損傷者以外の参加に反対したのだ。前出の池部さんは言う。「グッドマン博士は、ストークマンデヒル病院では脊髄損傷病棟の医師だったので、車いすの人たちのリハビリを担当することが多かったんだと思います。一方で中村先生は整形外科医で、たくさんの身障者の診察していました。グッドマン博士には、『脊髄損傷者以外の障害者も参加できる大会にすべき』と伝えていたのですが、博士の答えはいつも『I don’t want!(私は望んでいない)』だったそうです」
ただ、グッドマン博士は中村博士の行動力に一目を置いていたのも事実だ。というのも、留学中の中村博士に向けて「日本人ではいまだに誰も実行していない」と突き放したにもかかわらず、中村博士は本気でパラスポーツの普及と身障者の社会参加に取り組んでいたからだ。
結果的に、中村博士はグッドマン博士の反対を押し切り、1975年6月に大分で開催された第1回のフェスピックでは視覚障害者、聴覚障害者、切断者、脳性麻痺者も参加することができた。現在のパラリンピックの原型となる多様な障害者が集う国際スポーツ大会は、大分が原点となった。大会にはグッドマン博士も来日し、皇太子夫妻(現在の上皇夫妻)と一緒に大会を観戦した。太陽の家の服部直充さんは言う。
「フェスピックの成功がどれほど影響したかはわかりませんが、1976年にカナダで開かれたパラリンピックでは、初めて脊髄損傷者以外の参加者が認められました。実は、この年にグッドマン博士が身障者スポーツについての本を出しているのですが、そこには脊髄損傷者以外の多様な障害者スポーツが紹介されています。グッドマン博士は中村先生の人生を大きく変えましたが、グッドマン博士もまた、中村先生から影響を受けたのではないでしょうか」
先駆者グッドマン博士の信念を覆した中村博士の熱意は、さらに日本の政財界人をも動かしていく。
▶【後編 “ヤシの木の下で大会を!” 肥大化するアジアパラ、立ち返るべき国際大会の理念】を読む
写真/越智貴雄[カンパラプレス]・ 文/西岡千史