2026年10月、名古屋を中心にアジアパラ競技大会が開催される。パラリンピックのアジア版でもあるこの大会は18競技が実施され、45カ国から3600〜4000人の選手が参加する予定だ。アジアパラ競技大会は、2010年に中国・広州で第1回大会が開催された。第5回となる名古屋大会は、日本で初の開催となる。
前編では、日本においてパラスポーツの振興に先鞭をつけ、大会の実現に心血を注いだ「日本のパラスポーツの父」中村博士を紹介した。博士の不屈の信念はさらに、黎明期の日本のパラスポーツを前進させていく。
▶【前編 アジアパラ競技大会の礎を築いた「日本のパラスポーツの父」中村裕医師の思いとは】を読む
「有言実行の人」の行動力は、政財界にも及んだ。大会開催の目的の一つは、パラスポーツが普及していない開発途上国を日本に呼ぶこと。そのためには資金が必要だ。すると、中村博士の理解者であるソニー創業者の一人である井深大氏と放送ジャーナリストの秋山ちえ子氏が動いた。二人は「開発途上国をフェスピックに参加させる会」を発足し、東京で毎月バザーを開催して約2500万円の資金を集めた。
政界工作では、関係者の間でも知る人ぞ知るエピソードもある。各国の選手やスタッフは、大会前に香港に集まって羽田空港経由で日本に来ることになっていた。それを知った中村は「大分空港に臨時の税関をつくる」と言い、関係省庁を説得し、大分空港での入国を実現させた。
香港から大分には、飛行機をチャーターした。ところが、香港に行けば迎えの飛行機に乗れることを知った外国の大会関係者が予定よりも多く集まってしまい、2台目の飛行機が必要になった。そこで中村博士は、運輸大臣経験者で省庁に睨みのきく自民党の橋本登美三郎元幹事長に電話で連絡し、全日空の社長を説き伏せて2台目をチャーターしたという。今の時代では考えられないエピソードだが、中村博士が人生を賭けて障害者スポーツの普及に賭ける熱量に、政財界の人たちも協力を惜しまなかった。
こうやって実現した第1回フェスピックには、18カ国974名の選手団が参加。その後のアジア各国でのパラスポーツの普及に大きな役割を果たした。
中村博士は1984年7月23日、57歳の若さでこの世を去った。くしくもこの日は、彼の人生を変えたストークマンデビル病院で、第7回パラリンピック(第33回国際ストーク・マンデビル競技大会)が開かれていた。中村博士の訃報が競技場に届くと、選手とスタッフは悲しみに包まれ、日本選手団の関係者には「ドクター・ナカムラが亡くなったというのは本当か?」との問い合わせが相次いだという。どういった経緯であるかは不明だが、日本選手団よりも先に海外の大会関係者に先に情報が届いていて、それを聞いた日本人スタッフが慌てて日本に問い合わせをすると、事実であることがわかったという。
訃報はすぐに大会中にアナウンスされ、選手とスタッフ全員が2分間の黙祷を捧げた。中村博士の人生は、障害者がスポーツを通じて社会復帰すること、それを実現するために自ら持つすべてのものを捧げたものだった。
第1回のフェスピックが閉幕した直後、中村博士は新聞社のインタビューで「なぜ、大都市ではなく大分で開催したのか」と問われ、こう答えている。
「最近のオリンピックを観ればわかるように、非常に派手でお祭り騒ぎで開催している。一方、誰のためのフェスピックかと考えれば、メインゲストは身障者であることを忘れてはならない。とくに、東南アジアなどの経済的に恵まれない国で身障者の大会をやる場合は、ヤシの木のある浜辺などでもできる、身障者のスポーツ大会を開催したい。つまり、フェスピックのキャッチフレーズは『ヤシの木の下で、ヤシの実をすすりながらやる国際大会』。どんなに貧しい国で大会を開いても、ホストカントリーになれる大会にしなければならない。それであまり派手にやらず、大きくやらずということで大分のような田舎で開催したわけです」(『東京パラリンピックをつくった男』ゆいぽおと刊)
中村博士がこの世を去ってからまもなく40年になろうとしている。この間、アジアパラ大会は彼の思い描いたものよりもはるかに巨大なスポーツイベントに発展した。一方で、大会開催都市の費用負担は回を増すごとに重くなっている。冒頭で述べたように、2026年の愛知・名古屋アジアパラ大会では大会開催費用の予算不足ばかりが報道され、大幅な経費削減が行われる見通しだ。無駄なものは削るべきだが、それでも変えてはいけないものがアジアパラにはあるはずだ。大会運営費に困っていたのは、第1回フェスピックも同じである。今からでも遅くない。中村博士が目指した障害者のための国際スポーツ大会の存在意義を、深く考えるべきだろう。
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写真/越智貴雄[カンパラプレス]・ 文/西岡千史