パラ陸上の車いすレースで、男子のクラスT54(下肢機能障がい)は今、最も厳しい勝負を強いられている競技の一つだ。東京2020パラリンピックで4冠を達成したマルセル・フグ(スイス)が、現在も800m、1500m、5000m、マラソンで世界記録保持者として君臨し、まさに独走態勢を築いている。その厳しい世界で日本のトップランナーとして挑み続けているのが、鈴木朋樹だ。そして鈴木の後に続くランナーとして今、注目が置かれているのが、岸澤宏樹。今年5月、神戸で開催された世界選手権で“世界デビュー”するなど頭角を現し始めた新星に迫る。
車いすレースの男子T54のクラスで、日本のエースとして活躍している鈴木朋樹。トラック中・長距離種目に加えてマラソンでも、現在、国内で彼の右に出る者はいないと言っていいだろう。特にマラソンではパリパラリンピックの出場に大きく関わるハイパフォーマンスランキングで4位と、メダル獲得に大きな期待が寄せられている。そして鈴木がずっと自らの主戦場としてきたトラック種目の1500mでは日本記録保持者でもあり、ハイパフォーマンスランキングも日本人トップを誇る。
そのエースの後を猛追しているのが、岸澤宏樹だ。今年5月の世界選手権、2人は1500mに出場。ともに予選を突破し、決勝では鈴木が7位、岸澤が9位という結果だった。鈴木が意地を見せた形だが、勝敗を大きく分ける位置取りについては岸澤の快走が際立ったレースでもあった。
スタートをしっかりと決めた岸澤は、出遅れることなく9人の集団の前方に自らの位置を確保。「想定していた通りのポジションにつけた」という岸澤は、3人の中国人選手をインコースから追うという展開にもっていった。一方、アウトコースからのスタートということもあり、鈴木はスタートでの位置取りがうまくいかず、最後方から追い上げる形となった。
これについて、鈴木はこう語る。「正直、岸澤選手の位置がちょうどよかったなと思いました。岸澤選手が初出場の世界選手権、初の決勝レースであの位置を取れたというのは素晴らしいと思います」
しかし、残り1周の鐘が鳴るのとほぼ同時に一気にスピードを上げる海外勢についていくことができず、岸澤は徐々に後方へと下がっていった。一方の鈴木は最後尾から追い上げ、ホームストレートで岸澤を、さらにゴール直前で中国人選手の1人を抜き去り、7位入賞。岸澤は9位に終わった。
初めての世界選手権でのレースを終えて、岸澤はこう振り返った。「(昨年10月の)アジアパラと同じようにラストで切れてしまうというところは、変われていなかったなと。自分の強みでもある加速力、スピードという部分もさらに磨きをかけて、もっと強化していく必要があると感じました。朋樹さんに対しても、今日はたまたま僕の方がいいポジションを取れましたが、勝負というところでは負けですし、まだまだ朋樹さんの背中は遠いところにあるなと。その背中を僕が先陣を切って追いかけて、朋樹さんももっと上を目指していくと思うので、高いレベルで競争し合えるようになっていきたいと思います」
岸澤にとって、スポーツは子どもの頃から身近だった。小学生の時は空手と水泳を習い、陸上を始めたのは、中学生のとき。高校、大学でもハードルの選手として競技に打ち込む生活を送っていた。
ところが大学3年のある日のこと、突然アクシデントが起こった。トレーニング中の不慮の事故で脊髄を損傷し、車いす生活となったのだ。
そんななか、入院中の岸澤に声をかけてきたのが、大阪体育大学の先輩である山本篤だった。山本は、北京、ロンドン、リオデジャネイロ、東京と4大会連続でパラリンピックに出場し、リオでは走り幅跳び(T63)で銀メダルを獲得。今年5月の世界選手権後にパラ陸上からは引退を表明したが、長い間、世界で活躍してきた日本を代表する義足ジャンパーだ。
その山本は大学卒業後も母校を練習拠点としていたため、岸澤は大学時代からパラ陸上の世界を認識していた。しかし実際に大会を見たことはなく、当時は車いすの種目があることは知らなかったという。入院中、山本に誘われて初めて知った世界だった。
山本の誘いをきっかけにしてパラ陸上に足を踏み入れた岸澤が、頭角を現したのは、昨年のこと。10月には初めて日本代表に選出され、アジアパラ競技大会に出場。さらに11月の大分国際車いすマラソンでは国内トップランナーたちと同じ集団で走り、しっかりとくらいついた岸澤は、日本人では5番目となる9位でフィニッシュ。本人も「想定以上の走りができた」と手応えを口にするなど、ポテンシャルの高さをうかがわせた。
この岸澤の台頭の裏には、ある指導者の存在があった。大学卒業後、大阪の企業に入社した岸澤は、ふだんは一人でトレーニングメニューを考えてやっていた。そんななか、2022年9月に現在の日立ソリューションズに転職を決意。大阪から東京へと拠点を変えてまでも転職をした一番の理由は、パラリンピックに夏冬あわせて4度の出場を誇る久保恒造の存在があった。
「いろいろな合宿に参加し、交流を深めていくなかで久保さんに指導を受けたいと思った」という岸澤。今では「最も頼れる存在」だ。
2人の出会いは、コロナ禍になる少し前の海外のレースだった。久保は、岸澤の走りについての第一印象をこう語る。「正直、効率の悪い漕ぎ方をしていました。ただ、それなのに速かったんです。“この漕ぎ方で、これだけスピードを出せるんだ”と驚きました。これからちゃんと競技特性の動きを理解した走りをすれば、すごく楽しみな選手だなと思いながら見ていました」
そんな高いポテンシャルを持つ岸澤のここ1年の急成長ぶりは、久保の指導のもと、徹底的に身体の動きを見直し、いかに車輪を効率よく回すかを追求してきた成果だ。
しかし世界選手権後、6月に出場したスイスでのグランプリ大会でタイムを更新することはできず、1500mのハイパフォーマンスランキングは11位(6月16日現在)。パリパラリンピックへの切符を引き寄せることはできなかった。
ただもともと岸澤が目標に据えていたのは、2028年ロサンゼルスパラリンピックだ。当初から5年計画を立ててロスを目指して岸澤を指導してきた久保も「今はロスへの通過点。そのなかでここまで伸びるというのは想定外です。正直まだまだ課題はたくさん。本当にここからです」と語る。
ようやく世界への扉を開け、勝負のスタート地点にたどり着いた岸澤。飛躍の時を迎えるその日に向けて、久保と“二人三脚”で走り続ける。
写真/越智貴雄[カンパラプレス]・ 文/斎藤寿子