パリ・パラリンピックは28日(日本時間29日未明)、パリ市中心部のコンコルド広場で開会式が開催され、12日間のパラスポーツの祭典の幕があがった。
開会式は、五輪に続いて大会史上初となる競技場外での開催となった。コンコルド広場はフランス革命の舞台であり、ルイ16世やマリー・アントワネットが処刑された場所でもある。対立の悲しい歴史を繰り返さないよう、1830年に「調和」の意味を持つ「コンコルド」の名称が正式に付けられた。
コンコルド広場を会場に選んだのは、今大会を新たな「調和」のきっかけにしたいという大会組織委員会の強い思いからだった。そのため、開会式のパフォーマンスは、パラスポーツを通じて共生社会の実現を目指す意味を込めて、あえて「パラドックス(逆説)」が演出の中心に取り入れられた。
芸術監督を務めたトマ・ジョリーは、開会式に合わせて「この広場は、社会の大きな変化の記憶を背負っています。私たちは、この式典がより偉大なコンコルド(調和)のために続く、喜びと祝祭の一つとなることを信じています」とのコメントを発表した。その言葉通り、冒頭では、多様な障害を負ったグループが華やかなダンスでメインステージに登場すると、一方、画一的な黒のスーツを着用したダンサーがピアノの上に乗って不協和音の中で踊った。日本のSNSでは、ピアノの上に乗って踊る演出に批判も出たが、「不快感」を感じさせる演出を通じて、これまで障害者が不当に受けてきた偏見や困難の歴史を表現した。
今大会では、パリ五輪と同じく「広く開かれた大会」をコンセプトに掲げる。選手たちも、凱旋門にかかる真っ赤な夕日を背景にシャンゼリゼ通りを歩いて入場。メイン会場の外では、無料で誰でも行進を見ることができるように配慮されていた。
一際大きな声援を受けたのは、戦火が広がるウクライナとパレスチナの選手団が入場した時だった。ウクライナはパラスポーツが盛んな国として知られるが、選手には戦争によって障害者になった人も多い。戦争で身体にも心にも傷を負った人が、スポーツを通じて人生の歩みを回復させていく。それもパラリンピック発展の歴史の一つでもある。
日本選手団は76番目に登場。旗手を務めた競泳女子の西田杏は、「オリンピックでも使われていたコンコルド広場で開幕し、バトンが渡されたようでとてもワクワクする開会式でした」とのコメントを発表した。
スピーチ上手として知られる国際パラリンピック委員会(IPC)のアンドルー・パーソンズ会長は、今大会でも会場を沸かせた。ユーモアと情熱にあふれた言葉で、「皆さんは驚くべき不屈の努力の物語を携えて、ここに到着しました。この大会で、素晴らしい試合を目撃し、みなさんの卓越した能力とパフォーマンスの物語を楽しみにしています。これまでで最も象徴的な会場で競技をする中で、パラリンピック選手は認められ、称賛され、報われるべきであり、何よりも尊敬される存在であることを世界に示しましょう」と選手たちに訴えた。
聖火ランナーには、陸上男子走り幅跳びのマルクス・レーム(ドイツ)やフェンシングの車いすフェンシングのベアトリーチェ・ヴィオ(イタリア)ら、現在のパラスポーツ界を代表する選手が次々と登場した。この頃には、式典冒頭で強調されていた不協和音が、パラスポーツ界の英雄の登場とともに変化し始めた。たくさんのダンサーが炎を持って一緒に踊り、五輪と同じ気球の形をした聖火台に向けて一緒に走った。聖火台に無事に火がつくと、気球がパリの夜の空に舞い上がった。
フィナーレを飾った曲は、1970年代のヒットにヒットしたパトリック・ヘルナンデスの「Born To Be Alive(生きるために生まれてきた)」。曲が流れると、障害の有無に関係なくたくさんのダンサーが思い思いの踊りを披露。そして、式典終了後に流れてきたのは、昨年に死去したジェーン・バーキンの「Je t’aime… moi non plus(ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ)」だった。この曲は、ジェーン・バーキンが当時のパートナーであるセルジュ・ゲンズブールと一緒に男女の情愛を生々しく歌ったものだ。一部で放送禁止になった曲だが、五輪開会式の最後でセリーヌ・ディオンが唄った「愛の讃歌」と同じく「愛の都・パリ」を象徴する曲で、3時間半に及んだ開会式が終了した(ちなみに、「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」の歌詞部分はカットされていた)。
今大会には過去最多となる167の国・地域と難民選手団から約4400人が参加。22競技549種目で熱戦が繰り広げられる。日本からも、海外大会で過去最多となる175選手が出場する予定だ。
写真/越智貴雄[カンパラプレス]・ 文/西岡千史