スタッド・ローラン・ギャロスのセンターコート、フィリップ・シャトリエの赤土に、ふたりの選手の涙がこぼれ落ちた。
パリ2024パラリンピックの車いすテニス女子シングルス決勝。世界ランキング2位で第2シードの上地結衣(三井住友銀行)が世界ランキング1位で、東京2020パラリンピック決勝で上地を破ったディーデ・デ フロート(オランダ)を4-6、6-3、6-4で下し、見事リベンジを果たした。
グランドスラム23勝のデ フロートは、文字どおり女子車いすテニス界のトップに君臨する最強の女王。その彼女に勝つため、上地は東京大会から不退転の心で3年間を過ごし、女王の背中に手を伸ばし続けた。一球に魂を込め、集中力を高め、デ フロートに食らいつく上地。そして、すべてを出し切り、初めてその先の景色にたどりついた。
勝利の瞬間、その場から動くことができず涙が止まらない上地のもとに、デ フロートがネットを超えて歩み寄り、やはり泣きながらハグをして上地の勝利を称えた。追う者と、追われる者。そこには、それぞれの誇りと意地をかけ、2時間を超える激闘を戦い抜いた、ふたりだけの時間が流れていた。
第1セットは上地のブレークから始まり、3ゲーム連続で奪取。相手のダブルフォルトも重なり、第5ゲームもブレークに成功して4-1とリードを広げた。しかし、ショットの質やパワーが抜きんでているデ フロートが巻き返して5ゲームを連取。上地はセットを失った。
第2セットは互いにブレークし合う展開に。上地はこれまで以上に攻撃的にショットを打ち込み、また相手の虚をつくドロップショットを果敢に繰り出すなどして、ついに第8ゲームでキープに成功。このセットを取り切った。
ファイナルセットの第8ゲーム、デ フロートは球種と配球を変えてペースチェンジを試みる。対する上地はこのゲームだけで3度のリターンエースを決め、流れを手繰り寄せていく。5-4で迎えた第10ゲーム、再び上地の精度の高いサービスリターンが決まり、最後はデ フロートのダブルフォルトで2時間7分の激闘が決着した。
リオ大会で強豪オランダ勢の3番手だったデ フロートが急成長するきっかけとなったのが、3位決定戦で上地に敗れたことだ。オランダ勢の金銀銅メダル独占を阻まれたことで、テニスへの向き合い方が大きく変わった。一方、その後にデ フロートに逆転され追う立場になった上地は、彼女に対して28連敗という苦しい時期も経験した。「負け越して諦めかけたこともある。どうしたらいいのかわらからなくなった期間も長かった」と上地。
しかし、デ フロートに勝てていないという事実を正面から受け止めた。「何かを変えたら勝てるチャンスがあるかもしれない」と、リスクを承知で選手の“脚”である競技用車いすの変更や競技環境の変化にトライした。引退後の国枝慎吾氏に「わたしとテニスをしてほしい」と声をかけたのも、レジェンドと打ちあい、生きたボールから何かヒントを得られると思ったからだ。上地がもがいている時、変わらずに傍で支えてくれる家族やコーチ、エンジニアらのサポートの力も大きかった。
「やっと取れた。やっと来られたこの場所。諦めずにやってきてよかった」
泣きながら絞り出したその言葉に、実感がこもる。
いくつかの伏線があった。今年7月には、サーフェスこそ違うものの、グラスコートのブリティッシュオープンで上地はデ フロートに勝利した。上地が彼女に勝利したのは2021年2月以来、実に3年4カ月ぶりだった。この時、上地はずっと取り組んできたサーブのバリエーションやコースの配分、相手のポジションに対する自分の立ち位置、攻撃の起点となりうる相手のバックハンドではなくフォアハンドを狙うなど、自らのプレーをあえてさらけだし、相手の足を止めることに成功した。
このブリティッシュオープンでは、競技用車いすのセッティングを変えて臨むチャレンジもしていた。以前のものは座る部分のバケットシートの位置を真ん中か少し前寄りにし、回りづらくなる分、しっかりとためて自分の力で打てる安心感のあるものだったが、逆にバケットシートの位置を後ろに下げることで回旋性を上げることに賭けた。当然、リスクもある。「自分が思っている以上に車いすが回ったり動いたりする。それを、いかに自分のコントロール下におけるかがカギだった」と上地。「でも、以前のものでは結果が出ていない。ならば、ここは勝負に出よう」。その結果、勝利につながり、今回のパラリンピックも「“じゃじゃ馬”を乗りこなしてみせる」と、この新しいセッティングで挑むことにした。
もちろん、クレーコートはグラスコートよりもボールが跳ねることや球足が遅くなる特徴を考慮しなければならない。たしかに1、2回戦は感覚が合わないところがあったが、徐々にフィットさせていき、レベルが上がる準決勝ではついに「車いすと自分の身体が一体化して」ボールを打つことができた。そしてデ フロートとの決勝でも、威力を増したフォアハンドに加え、バックハンドショットやドロップショットも冴えた。さらに、「クレーコートでスリップしたり、ボールがイレギュラーに跳ねるなかでも軽やかに動き、次の動作にすぐに入ることができる状態は、今回のセッティングで非常にこだわったところ」と話すように、デ フロートに前後左右に大きく動かされてもしっかりと対応することができた。
この1年、上地を見守ってきた国枝氏は、「デ フロート選手と戦う際のゲーム運びは非常にテクニックがいるので、僕も上地選手も本当に頭を使ってきた。そのなかで、戦績ではデ フロート選手に負けているけれど、テニスのレベルは上地選手のほうが上回ってきていると感じていたので、それが成績で上回り、金メダルが獲れたのは本当に報われると思う」と目を細め、後輩をねぎらった。
上地は大会を振り返り、最後にこう語る。
「リオで私たちのストーリーは始まった。わたしが彼女の競技人生に火をつけたと自負しているし、東京大会で立場が変わってからは、彼女の成長を嬉しく思う気持ちとともに最終的に勝つのは自分でありたいとも思っていた。そうして今日は本当に一番いい試合ができて、多くの方に『女子の車いすテニスのレベルをまた一段上げたね』と言っていただいたし、これからもきっと、彼女とのこういう試合は続いていくと思う。やり続ければ絶対にチャンスがあるということを、ぜひ他の選手にも感じとってもらい、挑戦していってほしいと思う」
写真/植原義晴・ 文/荒木美晴