自らを社会を変革する「ソーシャル・アクティビスト」と呼ぶパラアスリートがいる。パリ・パラリンピックの競泳男子100mバタフライと男子400m自由形(いずれも視覚障害S11)で銅メダルを獲得した富田宇宙だ。富田は、パラリンピックとは、誰もが疎外感を感じることなく活躍できる社会を実現する「ソーシャル・インクルージョン」を広めるための機会で、ハードな水泳のトレーニングも、そのために続けていると言い切る。彼は、2021年の東京大会で銀メダルを獲得した後、スペインに練習拠点を置いた。海外生活の多かった3年間で、日本のパラスポーツ界が抱える課題をあらためて認識するようになったという。日本社会の未来を見つめる異色のパラアスリートが目指すものとは──。
パリ・パラリンピックで、100mバタフライ決勝のレースを終えたプールの中で、2021年の東京大会と同じように二人は再び抱き合った。そして、隣の第4レーンで2大会連続の金を獲得した木村敬一に、3位でゴールした富田はこう語りかけた。「お前、やっぱすげぇよ!」
木村と富田は、東京大会の同種目でワンツーフィニッシュの快挙を成し遂げた。パリ大会の予選ではお互いに組1位で決勝進出を決めたこともあり、2大会連続の偉業に期待が高まっていた。富田も意識していたのだろう。レース後に応じた記者団からの質問には、「(3位は)力及ばずで、待ってくださっていた方には申し訳ないなという気持ちもある」と語った。ただ、そこに悲愴感はなかった。むしろ、木村のことを称えると同時に「自分のことも少しだけ誇りたい」と明るい表情だった。
いつも「ライバル」と表現される二人。しかし、そんな使い古された言葉では言い表すことのできないものが、二人の間にはある。富田は、自身のことを「アスリートである以前にソーシャル・アクティビストという意識が強い」と言う。パラ・アスリートで多様性のある社会の実現を訴える選手は多いが、「社会を変えるために競技をしている」とまで断言する人はまれだ。一方、誰よりも勝ち負けにこだわる木村は、パラリンピックに対する考え方は富田とは違うと言う。それでも、富田のことを「向いている方向はたぶん一緒なんだろうなと思っている」と認めている。
富田は熊本県の済々黌(せいせいこう)高校に通っていた2年生の時、黒板の文字が見えなくなった。それまでは、宇宙工学を学ぶための勉強をしていたが、進行性の難病である網膜色素変性症で視力が落ちたことで、夢は絶たれた。
水泳を始めたのは3歳の時。視力が落ちてから競泳から遠ざかっていたが、大学を卒業して社会人になってから、2012年にパラ競泳と出会った。日常の生活で不自由を感じることはあっても、プールの中は自由に動けるバリアフリーの世界だった。それから、パラアスリートとしてのトレーニングを始めるようになった。
徐々に視力を失っていき、2017年には視覚障害では最も重いS11クラスになった。ところが、障害が重いクラスに変更になったことで、世界大会でも上位に食い込めることができるようになった。2歳で視力を失った木村とは、同じ視覚障害でも先天性と後天性という違いがありながらもお互いに切磋琢磨し、それは東京大会のワンツーフィニッシュという快挙に結実した。
富田は東京大会後、新しい挑戦を始めた。新しいトレーニングの拠点として、スペインを選んだことだ。決断に至った心境を、かつてこう話している。
「人が何かを学ぶプロセスってよくスポンジに例えられますけど、スポンジは乾いていないと水を吸い込めないですよね。東京パラまでは、どちらかというとひたすら水をかけられるような環境だったわけですが、そればかりもよくないなと思った」水をかけるだけではなく、自分自身のスポンジをいかに乾かすか。そのために選んだのが国外での単身生活だった。
スペインでは、新鮮なことばかりだったという。駅や公共施設など、街中のバリアフリー環境は、日本の方がはるかに進んでいる。電車も遅れることが多い。運行予定が変わったら、一人では何もできなくなってしまう。それでも、不思議と不便さをあまり感じなかった。困っていると知らない人が富田に声をかけてきて、目的地が同じだと「一緒に行こう!」と言ってくれる。日本ではあまり経験したことのない「バリアフリー」な人が多い社会だった。
スペインでは、バルセロナ中心街から電車で40分ほどにあるスイミングクラブ「B-swim」に所属した。年齢も障害の程度も異なる様々なスイマーが30人ほど所属している。パラリンピックでメダルを獲得した選手を育てた実績のある、スペインのパラ競泳の名門チームだ。チームのスタッフからは、こんなことを言われたことがある。
「宇宙のようなメダリストが出てくれることは嬉しいけど、僕たちの一番の目標はメダルではない」
その言葉の意味はすぐにわかった。クラブ主催の大会に参加すると、最も盛り上がりをみせるのは、重い障害を持った子どもが25mを泳ぎ切ることだった。他の種目に出場した選手も、観客も、スタッフも、みんながその子どもの泳ぐ姿を必死に応援していた。「自分にはできない」とあきらめていたことを、周囲の人たちに支えられて挑戦し、限界に挑戦する。それこそが、パラスポーツが最も大切にすべきものがここにあると感じた。富田はパリ大会のレース後の記者会見で、あえてこのエピソードに触れて、スペインのパラスポーツ文化について語った。
「パラスポーツの“起源”のような価値を大切にしたうえで、多くの人が純粋にスポーツを楽しむ。それによって人間的な成長や社会とのつながりを獲得していく。その中に、(パラリンピックの舞台を目指す)ハイパフォーマンスを目指す選手も出てくる」
そもそも、日本とスペインでは選手育成の方法が違うという。富田は、日本は「メダルに向けて頑張っている選手を強化する体制は、世界に劣らないレベルまで来ている」と認める。だが、日本は「スポーツは苦しいこと」という固定観念が強く、それでは一般の障害者が楽しんでスポーツをすることにつながらないのではないかという懸念もある。会見では、こんな例え話も披露した。「日本は、植木鉢の上で一生懸命(選手を)育てている感じ。スペインは、もっとでかい畑にタネをバーっとまいて、でかい木もあれば小さい木もある。ジャングルみたいな森でOK。そういう方向性なんです」
パリ大会では、日本代表は金14個を獲得し、自国開催だった前回大会を上回った。銀と銅を含む総メダル獲得数も41個で、目標に掲げていたアテネ大会の52個には届かなかったものの、全体としては健闘したといえる。だが、果たしてメダルの数だけで日本のパラスポーツを「成功」と結論づけていいのだろうか。
フランスでは、障害のある人のスポーツ指導に必要な知識を持つ人材を育成し、パリ大会が終わった後も、全国のスポーツクラブに派遣して各地域で障害者を受け入れる仕組みを作るという。一方の日本はどうか。2021年には障害者差別解消法が改正され、事業者は障害者に対して「合理的配慮」をすることが義務化されたが、いまだに車いすの人が体育館を利用しようとしても拒否されるなど、「そもそも障害者がスポーツできる場所が少ない」と吐露する関係者は多い。
「ソーシャル・アクティビスト」としての富田の声は、日本のパラスポーツ、そして社会全体に投げかけられたものだった。4年後のロサンゼルス大会、そして日本のパラスポーツを今後どう発展させていくべきなのか。メダルの数だけではわからない課題を、富田は考えている。
写真/越智貴雄[カンパラプレス]・ 文/西岡千史