今や日本のみならず世界の車いすバスケットボール界において、希代の逸材の一人とされる鳥海連志。なかでも脚光を浴びた東京2020パラリンピックでの活躍によって、彼の名は全国、そして世界へと知れ渡った。そんな彼が日本代表デビューして、今年で10年。そこで本シリーズでは鳥海が歩んできた“10年間”の道のりを5回にわたってお届けする。シリーズ第1回は、代表選出のきっかけや、17歳、高校3年生で初出場したリオデジャネイロパラリンピックについて振り返る。
筆者が「鳥海連志」を初めて目にしたのは、彼が高校1年生で全国デビューした2014年5月の日本選手権だった。その前年のアジアユースパラゲームズで銀メダルを獲得するなど、関係者の間では“将来有望な若手”の一人とされていたが、全国的にはまだ無名と言ってよかった。しかし、ひと目見て彼の俊敏なプレーにまさに“くぎ付け”になった。それは東京2020パラリンピックで鳥海のプレーに魅了された多くの人々と同じ衝撃だったに違いない。
鳥海と初めて話をしたのは、同年の秋だったと記憶している。その年から日本代表候補の合宿に招集されるようになっていた鳥海に話しかけると、恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべながら「自分は全然だなって思います……」と言って、当時兄のように慕っていた豊島英に助けを求めるようにしていたしぐさが懐かしく思い出される。
その年、鳥海を取り巻く環境は一変していた。中学1年生から車いすバスケットボールを始めた鳥海は、中学2年生で当時所属していた佐世保WBCに正式登録。その2年後の14年に日本選手権に初出場を果たした。
その頃の彼のプレーは主にディフェンスで、得点に絡むことは皆無に等しかった。プレースタイルからすれば、本来は決して目立つ存在ではなかったはずだった。しかし、当時から彼のパフォーマンスには見る者を引きつける魅力があった。チェアスキルには粗さが目立っていたものの、それでもスピードとアジリティにおいてはすでにレベルが高く、はかり知れないポテンシャルの高さを持つ選手であることは、誰の目から見ても明らかだった。
そんな彼のプレーに注目していた一人が、当時男子日本代表の指揮官を務めていた及川晋平ヘッドコーチ(HC)だった。すでに鳥海の存在を知っていたという及川HCは、「彼はいい選手だよね。これからが本当に楽しみだよ」と語り、目を細めていたのだ。その“これから”が訪れたのは、予想以上に早かった。
日本選手権から約2カ月後、鳥海はU25日本選手権でMVPを獲得。すると関係者の間では、日本代表候補の合宿に招集してはどうか、という話があがり始めていたという。そして決め手となったのが、その約1カ月後にあった「のじぎく杯」でのプレーだった。鳥海擁する長崎県選抜は、決勝に進出。そこで対戦したのが、及川HC率いるNO EXCUSEだった。結果は44-58で長崎県選抜が敗れたが、この時の鳥海のプレーが及川HCの決意を固めた。
「長崎県選抜は、ずっとプレスをかけてきたのですが、なかでも鳥海のボールへのプレッシャーは抜群だったんです。改めていいプレーをする選手だなと。将来の可能性を考えてということではなく、即戦力として今すぐ日本代表に欲しいと思いました」
当時の男子日本代表はベテラン勢が多くを占め、最年少が20代後半。今のように世代交代が盛んに行われてはいなかった。そんな中、わずか15歳、まだ男子U23世界選手権の経験もなかった高校1年生の鳥海の存在は、まさにすい星のごとく現れた新星だった。だが、10歳以上も上の先輩たちのなかでも鳥海が臆することはなかった。
「はじめはレベルが違い過ぎて『なんでこんなにも自分はできないんだ』と思いました。ただ僕は負けず嫌いなので、そこで諦めるとかはぜんぜんありませんでした。今の目標は日本代表のスタメンに入ること。クラス2.0(当時)だからといって味方を生かすプレーだけでは自分の持ち味が死んでしまう。ほかのクラス2.0とは違う、自分にしかない部分を出してアピールしていきたいと思っています」
初招集以降、一度も代表候補からふるい落とされなかったどころか、鳥海は15年には12人の日本代表に選ばれ、翌16年のリオパラリンピックの予選となったアジアオセアニアチャンピオンシップ(AOC)に出場。初戦の1Q途中からコートに立った鳥海は、2Qにはミドルシュートで代表初得点を挙げた。それはシュートと言えばフリースローの確率を上げることを目標としていた1年前には鳥海自身も想像すらしていなかった成長の姿でもあった。
さらに鳥海のプレーには、その頃から華があった。「自分の持ち味はディフェンスで、パスカットを狙っていくところ」と語っていた通り、スティールして相手のボールを奪った鳥海は、そのままドリブルで上がり、レイアップシュート。その瞬間、スタンドから大歓声があがり、会場の千葉ポートアリーナのボルテージは一気に上がった。詰めかけた観客が、チーム最年少、唯一の10代だった若きプレーヤーに魅了されていた。
さらに及川HCが「戦力の一人」として見ていたことが最もわかる一戦となったのが、予選リーグ第2戦の韓国戦だった。ひと昔前まで韓国は日本にとって“格下”と言ってよかった。ところが、この前年の14年、世界選手権、アジアパラ競技大会とあわせて、日本は3連敗を喫し、簡単に勝てる相手ではなくなっていた。
この時のAOCでも互角の戦いとなり、3Qを終えた時点で38-40とわずかながらリードを許していた。すると最も大事な4Q、及川HCは鳥海をスタートで起用。この采配がピタリと的中した。相手が嫌がっていることが傍目からも感じられるほど、執拗なまでに強いプレッシャーをかけてくる鳥海のディフェンスに韓国は苦戦を強いられたのだ。
完全に流れをつかんだ日本は、逆転に成功。引き離す展開で55-48で勝利をおさめ、2年ぶりに韓国から白星を挙げた。この試合後、及川HCはこう鳥海を称えた。
「本当によくやってくれました。彼には言ったことをすぐ読み取って、ゲームの中で結果につなげてくれる才能がある。ほかのメンバーにも聞いたら『やりやすい』と言っていたので、じゃあ(4Qは)鳥海でいこうと。彼は純粋に天才だなと思います」
順当に予選を突破した日本は、準々決勝でマレーシアに圧勝。準決勝では当時アジアオセアニアゾーンでは頭一つ抜けた存在だったオーストラリアに完敗を喫したが、韓国との再戦となった3位決定戦は後半から完全に主導権を握り、80-56で快勝。3枠あったリオへの切符をつかみ取り、11大会連続となるパラリンピックへの出場を決めた。
2016年9月7日、リオパラリンピックが開幕。日本は当時過去最高成績だった7位よりも上の順位を目標に掲げ、世界最高峰の舞台へと乗り込んだ。しかし、予選リーグ突破のカギとされていた最初の3試合で、トルコ、スペイン、オランダのヨーロッパ勢に立て続けに敗れ、早々に決勝トーナメント進出の可能性が潰えた。
結局、予選リーグは1勝4敗に終わった日本は、9、10位決定戦へ。最後はイランを65-52で破り、白星で大会を終えたものの、4年前のロンドンパラリンピックと同じ9位という不本意な結果で幕を閉じた。初めて目の当たりにした世界との差に、鳥海は衝撃を受けていた。
「当時、僕は自信を持っていたんです。もちろん簡単に勝てる相手ではないし、厳しい試合になることはわかってはいました。ただリオまでの国際大会を経験するなかで、相手の強さを感じながらも日本は勝てると思っていたんです。でも、日本は世界の中で9位にしかなれなかった。自分自身も中学からの約5年間、一番楽しいと思える友だちとの遊びよりも車いすバスケを優先にして多くの時間を費やしてきました。それでも世界レベルの実力とは程遠かった。“これだけ頑張っても、こんなものなのか”と、車いすバスケへの気持ちを保つのは、かなりきつかったです」
それは、鳥海の人生の中で初めての経験だった。幼少時代から何をやっても一生懸命に取り組みさえすれば結果がついてきた。ところが、車いすバスケだけは違った。精一杯の努力は結果にはつながらず、残ったのは虚しさだけだった。鳥海は、リオ後、日増しに車いすバスケから気持ちが離れていった。
ほとんど辞めるつもりだったという鳥海だが、リオから約2カ月後、運命の糸にたぐりよせられるようにして、彼は日本代表のユニフォームを着てコートに立っていた。鳥海が冷え切っていた車いすバスケへの気持ちに再び情熱を灯した背景には、ある人物の存在があったーー。
鳥海連志(ちょうかい・れんし)
1999年2月2日、長崎県生まれ。両手足に先天性の障がいがあり、3歳の時に両下肢を切断。中学1年で車いすバスケットボールを始め、2013年、中学3年時にアジアユースパラゲームズに出場して銀メダルを獲得。翌14年には日本選手権に初出場し、日本代表候補の合宿に初招集された。15年10月のアジアオセアニアチャンピオンシップで日本代表デビューし、16年リオデジャネイロパラリンピックに出場した。17年、男子U23世界選手権でベスト4進出し、オールスター5を受賞。東京2020パラリンピックでは銀メダル獲得に大きく貢献し、IWBF(国際車いすバスケットボール連盟)が実施したファン投票でMVPに輝いた。翌2022年には男子U23世界選手権で日本車いすバスケ界史上初の金メダル獲得の立役者となり、オールスター5にも選ばれた。現在アシスタントコーチを兼任する神奈川VANGUARDSは2024年度の天皇杯で3連覇を達成。2大会ぶり2度目のMVPに輝いた。2023年にプロ宣言をし、パラアスリートとして初めて株式会社アシックスと契約した。
※第2回「あのままバスケを辞めてもおかしくなかった」リオ後に情熱を再燃させた同志の存在・・・は4月10日(木)午前11時に公開予定です。
写真/X-1 長田洋平/アフロスポーツ ・文/斎藤寿子