今や日本のみならず世界の車いすバスケットボール界において、希代の逸材の一人とされる鳥海連志。なかでも脚光を浴びた東京2020パラリンピックでの活躍によって、彼の名は全国、そして世界へと知れ渡った。そんな彼が日本代表デビューして、今年で10年。そこで本シリーズでは鳥海が歩んできた“10年間”の道のりを5回にわたってお届けする。シリーズ第2回は、日本代表デビュー1年後に訪れた分岐点について振り返る。
▶日本代表・鳥海連志 10年の言葉① 「自分は世界で全然だった・・・」を読む
▶日本代表・鳥海連志 10年の言葉③「軽さに逃げるという選択肢はなかった」を読む
「車いすバスケはもういいかな……」。リオパラリンピック後、鳥海の気持ちはほとんど固まりつつあった。そんな彼の気持ちをつなぎとめた人物がいた。現在、神奈川VANGUARDSのチームメイトである古澤拓也だ。鳥海より学年は2つ上だが、中学時代からジュニアを対象とした合宿では寝食を共にするなど気心の知れた間柄で、リオパラリンピックまでの日本代表候補の合宿では唯一の同世代だった。そんな古澤を鳥海は“タクちゃん”と呼び、慕っていた。
その古澤とともに招集されたのが、男子U23日本代表の活動だった。リオの翌年の2017年1月にアジアオセアニア予選会が行われ、上位3チームが同年6月の男子U23世界選手権に出場することになっていた。当時U23日本代表の柱として期待を寄せられていたのが、リオパラリンピックに出場した鳥海、そして補欠選手に選ばれていた古澤の2人だった。
「連志、一緒に頑張ろう」。古澤からの言葉に、鳥海はリオで失くしかけた車いすバスケへの情熱を再び取り戻していった。もともと好奇心旺盛な分、熱しやすく冷めやすい性格だという鳥海。そんな彼にとって車いすバスケは初めて飽きることなく夢中になって追い続けた世界だった。その車いすバスケとの縁は、やはりそう簡単に切れるものではなかったのだろう。初めての挫折だったリオの翌年に、U23世界選手権が控えていたのは、まさに運命と言えた。
「タクちゃんと一緒にU23で世界一を目指そうという状況がなかったとしたら、車いすバスケをそのまま辞めていてもおかしくはなかったと思います。競技人生における大きな分岐点だったなと。あの時タクちゃんという存在がいて、U23世界選手権という目標が、リオの後すぐにあったのは本当に大きかったです」
そして古澤もまた、同世代に鳥海という存在がいたことへの大きさを感じている。
「ジュニア時代から切磋琢磨してきた同世代の選手たちがいなければ、今の僕はなかったと思っています。なかでも大きな刺激を与えてくれたのが、連志の存在でした。15歳の連志が日本代表候補になった時には、“もう10代だからという言い訳はできない”と思いました。それにU23は僕の方が先にデビューしたなのに、いつの間にか連志の方が僕の前を歩くようになって、彼がリオに出場した時は同世代の活躍が嬉しかったのと同時に悔しさもこみあげてきました。それで気持ちにスイッチが入ったところはあったと思います。そんなふうにずっと車いすバスケでつながってきた連志とは、信頼できる仲間だと思っています」
そんな2人がダブルエースとなり、古澤がキャプテン、鳥海が副キャプテンを務めた男子U23日本代表は、17年1月に男子U23アジアオセアニア予選に臨んだ。予選リーグでは強豪のオーストラリアやイランをも撃破し、5戦全勝でトップ通過した日本は、準決勝ではタイに快勝。決勝進出とともに、半年後の男子U23世界選手権への出場を決めた。
“世界一のディフェンスで勝つ”のスローガン通り、チームはプレスディフェンスを最大の武器とした一方、オフェンスではキャプテン、副キャプテンが得点源となった。古澤が3ポイントシュートを含むアウトサイドからのシュートを高確率に決めれば、鳥海はスピードを生かした速攻やドライブからのレイアップで得点を重ねた。
鳥海にとって予選でのハイライトは第3戦のオーストラリア戦で、20得点でトップスコアラーとなった。さらにチームは決勝でイランに敗れたものの、鳥海は3Qの後半には2分間で7得点と独壇場とするなど活躍。川原凜とともに、初めてオールスター5に選出され、銀メダル獲得に大きく貢献した。
同年6月、U23世界選手権が開幕。各大陸ゾーンの予選を突破した12カ国が出場し、9日間にわたって熱戦が繰り広げられた。6カ国ずつ2グループに分かれて行われた予選リーグ、プールBの日本はイギリス、ドイツと4勝1敗で並び、得失点差で3位通過となった。鳥海自身の調子も良かった。予選リーグ最終戦のドイツ戦では敗れはしたものの、ビッグマンを揃えた高さのある難敵に対してチーム最多の25得点。フィールドゴールを13分の11で決め、85%の成功率を誇った。
準々決勝ではプールAの2位カナダと対戦した日本は、58-45で快勝。いよいよメダルゲームへと突入した。しかし、イギリスとの再戦となった準決勝は試合開始から約8分間、得点を挙げることができずに大苦戦。ようやく挙げた最初の得点は、鳥海のミドルシュートだった。結局、1Qは鳥海による6得点に留まった。ディフェンスをプレスに切り換えた2Qこそ互角に渡り合ったものの、後半に入るとさらにギアを上げたイギリスの勢いを止めることができず、76-34で完敗を喫した。
大会最終日、日本は気持ちを立て直して3位決定戦に臨んだ。対戦相手は、同じアジアオセアニアのオーストラリアだった。1月のAOCでは60-41と快勝していたこともあり、チームの誰もが勝利を信じて疑わなかった。自信の大きさはパフォーマンスにも表れ、前半を終えて40-26と大きくリードして試合を折り返した。
ところが、後半に入ってオーストラリアがプレスディフェンスに切り換えたとたん、思うように得点できなくなった。するとディフェンスにもほころびが生じ、失点を重ねた。そして3Q中盤、鳥海が4つ目のファウルを取られてベンチに下がると、一気に流れはオーストラリアへと傾いていった。鳥海は「なんとか頼む……」という気持ちでベンチからコートのチームメイトに声を送り続けたが、結局3Qだけで25失点を喫した日本は、51-51と同点とされてしまった。
4Q、日本は再び鳥海をコートに戻したものの、いきなり出だしでオーストラリアのエース、トム・オニールソンに4連続得点を許した。これが最後まで大きく響き、日本も粘り強く戦ったものの、66-71で逆転負け。U23カテゴリーでは、2005年以来3大会ぶりとなるメダル獲得にあと一歩及ばなかった。しかし、試合後の鳥海の言葉には、悔しさよりもチームが成長したことへの喜び、そして、リオの時のような失望感ではなく、今後への期待感があった。
「難しい試合が多かったなか、ベンチのメンバーも声が出ていたし、京谷(和幸)HCも常に鼓舞してくれて、チームで戦うありがたみを感じた大会でした。予選リーグでの4勝は自分たちに力があることを確認できましたし、4位というのもまずまずの結果だったと思います。大会前は国内外から“この世代の日本は弱い”という言葉もありましたが、それでも自分たちのベストを尽くそうと合宿を重ねてきて、このステージまで上ってきたことは本当に素晴らしかったと思います」
個人賞では鳥海と古澤がそろってオールスター5を受賞。上位3カ国からは1人ずつの選出だったなか、AOCに続いて日本からは2人が選出されたことからも、いかにこの世代には世界に通じる逸材が揃っていたかがわかる。それは、鳥海自身も同世代に対して感じていたことだった。
「今大会、若い選手がメンバーに選ばれて試合ができたことが、これからの日本の強みになると思います」
鳥海にはそれが大きな希望となっていたのだろう。もう彼の気持ちが車いすバスケから離れることはなかった。そして2カ月後、鳥海の言葉が的中し、日本は歴史的快挙に向けて歩み始めることになるーー。
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鳥海連志(ちょうかい・れんし)
1999年2月2日、長崎県生まれ。両手足に先天性の障がいがあり、3歳の時に両下肢を切断。中学1年で車いすバスケットボールを始め、2013年、中学3年時にアジアユースパラゲームズに出場して銀メダルを獲得。翌14年には日本選手権に初出場し、日本代表候補の合宿に初招集された。15年10月のアジアオセアニアチャンピオンシップで日本代表デビューし、16年リオデジャネイロパラリンピックに出場した。17年、男子U23世界選手権でベスト4進出し、オールスター5を受賞。東京2020パラリンピックでは銀メダル獲得に大きく貢献し、IWBF(国際車いすバスケットボール連盟)が実施したファン投票でMVPに輝いた。翌2022年には男子U23世界選手権で日本車いすバスケ界史上初の金メダル獲得の立役者となり、オールスター5にも選ばれた。現在アシスタントコーチを兼任する神奈川VANGUARDSは2024年度の天皇杯で3連覇を達成。2大会ぶり2度目のMVPに輝いた。2023年にプロ宣言をし、パラアスリートとして初めて株式会社アシックスと契約した。
写真/X-1 長田洋平/アフロスポーツ ・文/斎藤寿子