今や日本のみならず世界の車いすバスケットボール界において、希代の逸材の一人とされる鳥海連志。なかでも脚光を浴びた東京2020パラリンピックでの活躍によって、彼の名は全国、そして世界へと知れ渡った。そんな彼が日本代表デビューして、今年で10年。そこで本シリーズでは鳥海が歩んできた“10年間”の道のりを5回にわたってお届けする。シリーズ第3回は、銀メダルを獲得した東京2020パラリンピックでの活躍の裏側に迫る。
▶日本代表・鳥海連志 10年の言葉① 「自分は世界で全然だった・・・」を読む
▶日本代表・鳥海連志 10年の言葉➁「あのままバスケを辞めてもおかしくなかった…」を読む
2021年、男子日本代表は、東京2020パラリンピックでそれまでの最高成績だった7位を大きく上回る銀メダルを獲得。現在も世界一に君臨し続けているアメリカとの決勝では、敗れはしたもののまさに“世界一決定戦”にふさわしい激闘を繰り広げ、日本は大躍進を遂げた。
その歴史的快挙への道のりにおいて、日本を世界トップクラスへと押し上げた原動力が、2017年の男子U23日本代表が世界のベスト4に入ったことだった。その活躍を機に次々と台頭していった若手の存在がベテラン勢に刺激を与え、チームに競争を生み出した。そしてU23日本代表が強みとしたプレスディフェンスが、男子日本代表にも本格的に導入されたことで、サイズの大きい海外勢にも負けないトランジションバスケが構築されていったのだ。
その火付け役ともなった17年のU23日本代表は、ダブルエースだった鳥海と古澤拓也が中心であったことは間違いない。しかし、当時を振り返る際、鳥海はいつもチームメイトの名前を口にすることを忘れない。
「自分が決していいパフォーマンスをしたから勝てたわけではなくて、例えば寺内(一真)くんだったり、僕よりも若い赤石(竜我)だったり、みんなが頑張ってくれたおかげです。鳥海、古澤だけではなく、チーム一丸となっていたのが大きかったし、同世代の12人全員でしっかりと戦い抜いたからこそベスト4まで行けたのだと思います」
それは、22年のU23世界選手権で金メダルに輝いた時もまったく同じだった。同世代のなかで常に一歩先を行き、世界トップレベルの大舞台を経験しても、鳥海のU23への思い入れの強さは変わらなかった。その理由について、彼はこう語っている。
「A代表はパラリンピックに向けて勝利だけを目的に戦う場。もちろんチーム力は必要とされますが、12人に残るためにお互いを蹴落としていかなければいけないライバル同士でもある。だから基本的に合宿はしのぎ合う場でもあります。でもU23は、僕の中では楽しいという方が強いんです。勝利を目指しつつも、それだけじゃなくて、みんなで一緒にっていう気持ちがある。僕は初めてのジュニアの経験がU25日本選手権だったのですが、九州選抜では大会を通して全員得点が目標で、みんなでゲームを楽しむことが一番とされていました。それが染みついているのかもしれません。U23では勝つのも、うまくなるのも、みんなでというのが一番大事で、僕はそれが楽しいんです」
17年以降、若手が台頭していくなかで日本代表は東京2020パラリンピックに向けて着実に力をつけていった。U23世界選手権の2カ月後に行われた国際強化試合「三菱電機ワールドチャレンジカップ(MWCC)」では古澤たちが日本代表デビュー。その後日本の武器となったプレスディフェンスで海外勢を苦しめた。
18年世界選手権では当時ヨーロッパ王者だったトルコを撃破し、IWBF(国際車いすバスケットボール連盟)からは“大会最大の番狂わせ”と衝撃のニュースとして報じられた。さらに決勝トーナメントでは1回戦で敗れはしたものの、その2年前のリオパラリンピックで銀メダルだったスペインと互角に渡り合い、2点差での惜敗と最後まで強豪を苦しめた。そして翌19年アジアオセアニアチャンピオンシップでは、予選リーグでイラン、オーストラリアを立て続けに破る快挙を成し遂げた。いずれも最終順位は納得のいくものではなかったが、もはや海外勢にとって日本は簡単に勝てる相手ではなくなっていたことは確かだった。
そんななか、鳥海自身もパフォーマンスに磨きをかけようと模索が続いていた。彼のプレーが見た目からも変わり始めたのは、18年のことだ。シュートの確率が上がったことに加えて、それまで多かった転倒のシーンが激減していた。その理由の一つは、車いすを変えたことにあった。聞けば、海外勢のパワーに負けないコンタクトの強さを求めて、フィジカルの強化とともに、車いすの重量を上げたのだという。
「自分は足の重さがない分、相手と接触するなかでどうしても振動を受けてしまって体が安定しない。それで車いすメーカーさんとも話し合って、重さがあれば体のバランスもとりやすく、その分、周りをしっかりと見てプレーすることができるんじゃないかという考えに至りました」
しかし、もともとスピードやクイックネスが持ち味である鳥海にとって、それはリスクを伴う大きな挑戦でもあった。そのため同年6月に国内で行われたMWCCでは、まだ乗る選択ができなかったという。ようやく実戦で使い始めたのは、MWCCの2週間後に行われたイギリス遠征だった。
「正直、前の車いすよりも漕ぎ出しのワンプッシュ目は少し遅くなったと思いますし、それまでの自分の動きが失われる怖さがあって、MWCCではチャレンジできませんでした。ただだからといって軽さに逃げて前の車いすに戻すという選択肢はなかったので、乗りこなせるようにフィジカルの強化に努めてきました」
イギリス遠征後、さらに重量を上げたという鳥海の車いすは、1年前とは700グラムも重くなっていた。だが、その挑戦は吉と出た。リオパラリンピックではセカンドラインナップの一人だった鳥海だが、18年の世界選手権の時にはもう中心メンバーの一人となりつつあった。
なかでもスペイン戦で残した戦績は、そのことを象徴していた。世界随一の高さを持つ相手に対し、鳥海は11得点をマーク。それは藤本怜央とはタイ、そしてチーム最多の香西宏昭の12得点に次ぐという、それまで“ダブルエース”として日本をけん引してきた2人の先輩たちに並ぶ数字だった。そして、その3人のみが2ケタのアテンプトを数えたなか、フィールドゴール成功率は2人を凌ぐ50%を誇った。さらにリバウンドはハイポインター陣を凌ぎ、チーム最多の8を数えた。
無論、すでに世界に名を知られていた藤本や香西とでは、相手のマークの厳しさも違っていただろう。ただ自らも「ディフェンスを買われて代表入りした」と語っているように、守備の要だった鳥海が得点源にもなったことで、“日本に鳥海あり”と印象付けたことは間違いなかった。
鳥海はその後、すっかり日本代表に欠かすことのできない一人となり、勝敗を決定付ける大事な役割を担うようになっていった。しかし、彼自身は自分に納得していなかった。代表デビューの当時から掲げてきた目標が、一向に達成されていなかったからだ。その目標とは“スタメン出場”だった。それこそが鳥海が理想とする日本代表での自分の姿であり、矜持でもあった。
その目標達成のためには、ゲームをつくるうえで絶対に欠かすことのできない存在になることが必要だと考えていた。そのためリオパラリンピック以降、少しずつ変えてきたことがあった。車いすの高さだ。東京パラリンピックまでの5年間で上げたトータルの高さは実に20センチほどにもなっていた。だが、それは決して簡単な選択ではなかったはずだ。1センチ違うだけで操作性がまったく変わるうえに、重心が高くなることで体のバランスを取ることが難しくなるという、スピードやクイックネスが最大の持ち味である鳥海にとっては多くのリスクを伴うものだったからだ。そのためこの試みに対して心配する声は少なくなく、周囲からは「やめた方がいいのでは」と何度も助言を受けたという。
それでも鳥海に迷いはなかった。サイズのない日本においてミドルポインターである自分が海外勢と空中戦を争うことのできる高さを持つことは、日本が勝つためにも、そして何よりチーム内での自身の存在価値を高めるためにも絶対に必要だと考えていたからだ。だからこそ「誰よりもしてきたという自信がある」と語るほど必死でトレーニングに励んだ。
こうして5年の歳月をかけた努力が、2021年夏、ついに実を結び、大きな花を咲かせたーー。
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鳥海連志(ちょうかい・れんし)
1999年2月2日、長崎県生まれ。両手足に先天性の障がいがあり、3歳の時に両下肢を切断。中学1年で車いすバスケットボールを始め、2013年、中学3年時にアジアユースパラゲームズに出場して銀メダルを獲得。翌14年には日本選手権に初出場し、日本代表候補の合宿に初招集された。15年10月のアジアオセアニアチャンピオンシップで日本代表デビューし、16年リオデジャネイロパラリンピックに出場した。17年、男子U23世界選手権でベスト4進出し、オールスター5を受賞。東京2020パラリンピックでは銀メダル獲得に大きく貢献し、IWBF(国際車いすバスケットボール連盟)が実施したファン投票でMVPに輝いた。翌2022年には男子U23世界選手権で日本車いすバスケ界史上初の金メダル獲得の立役者となり、オールスター5にも選ばれた。現在アシスタントコーチを兼任する神奈川VANGUARDSは2024年度の天皇杯で3連覇を達成。2大会ぶり2度目のMVPに輝いた。
写真/X-1 長田洋平/アフロスポーツ ・文/斎藤寿子