今や日本のみならず世界の車いすバスケットボール界において、希代の逸材の一人とされる鳥海連志。なかでも脚光を浴びた東京2020パラリンピックでの活躍によって、彼の名は全国、そして世界へと知れ渡った。そんな彼が日本代表デビューして、今年で10年。そこで本シリーズでは鳥海が歩んできた“10年間”の道のりを5回にわたってお届けする。シリーズ第4回は、東京での銀メダル、そしてU23の金メダルと日本が世界トップへ飛躍した舞台を振り返ると同時に、2023年にプロへと転向したその思いに迫る。
▶日本代表・鳥海連志 10年の言葉① 「自分は世界で全然だった・・・」を読む
▶日本代表・鳥海連志 10年の言葉➁「あのままバスケを辞めてもおかしくなかった…」を読む
▶日本代表・鳥海連志 10年の言葉③ 「軽さに逃げるという選択肢はなかった」を読む
鳥海にとって2度目のパラリンピックは、すべてが異例づくしだった。2020年に新型コロナウイルス感染症が拡大してパンデミックとなり、その年に予定されていた東京2020オリンピック・パラリンピックは史上初の延期となった。
日本代表の強化合宿も中止が続いたなか、鳥海は自分自身ででき得る限りのフィジカルトレーニングに励み続けた。40分間走り続けられるだけの強靭なスタミナを養い、5年間で約20センチ高くした車いすでも持ち味のスピードやクイックネスが失われないよう、チェアスキルを磨いた。鳥海が理想としてきた高さとスピードを兼ね備え、攻守にわたって柱となる“オールラウンダー”への階段を、コロナ禍の中でも人知れず上り続けていたのだ。
21年秋になってようやく再開した合宿では、その成果が表れた。5対5のゲーム形式での練習で、鳥海が入ったラインナップはいずれも負け知らずだった。鳥海は、「今度こそ」と大きな手応えを感じながら、本番までの1年間を過ごした。
そして、ついに待ちに待った“その時”が訪れた。21年8月26日、東京2020パラリンピック初戦の日、試合前に京谷和幸ヘッドコーチ(HC)からスターティング5が発表された。キャプテン(当時)の豊島英、チーム最年長の藤本怜央、初のパラリンピック出場の秋田啓と川原凜の4人と共に名前を呼ばれたのは、鳥海だった。「よし、勝ち取った……」。鳥海は、心の中でそっと喜びをかみしめていた。代表入りした時からの目標、リオでは叶わなかった“スタメン出場”をついに成し遂げたのだ。
結果的に鳥海は、8試合中7試合でスターティング5に名を連ね、そのうち2試合は40分間フル出場と、チーム最長のプレータイムを誇った。さらにリバウンドとスティールの数は、堂々の3位にランクインするなど、スピードと高さを兼ね備えたパフォーマンスで日本を銀メダルへと導いた。
東京パラリンピック後、鳥海に対する称賛の声は絶えず、メディアの露出も増えていった。しかし、鳥海自身は自分を特別だと思うような“勘違い”はしなかった。東京パラリンピックから3カ月後のインタビューで彼はこう語っている。
「東京の後、“メダリストとは?”と考えたこともありました。でもメダリストだからどうすべきと考えること自体、過信なのかなと思いました。メダリストになったから練習を頑張るわけでもないし、人を大事にすることも変わらないなって。そして本業以外の仕事をいただけるのはすごく嬉しいですし、いろいろな経験ができてありがたいと感じています。でも、そういう仕事をすればするほど、自分はあくまでもアスリートなんだということを実感するんです。“やっぱり鳥海連志は車いすバスケットボール選手だ、ということを示していかなければいけない”ということをひしひしと感じます。だから僕はこれからもプレーで結果を残し続けていくことを一番大事にしていきたいと思っています」
それは、東京パラリンピックから1年後、“有言実行”となったーー。
「僕にとって、これが最後のアンダーの大会。最高の結果を残して、金メダルを持ち帰ってきたいと思います」
男子U23世界選手権を直前に控えた強化合宿のインタビューで、鳥海は強い意気込みを見せていた。彼のほか、赤石竜我、髙柗義伸と、東京2020パラリンピックの銀メダリスト3人を擁した男子U23日本代表は、優勝を目標にして、22年9月、タイ・プーケットに乗り込んだ。
初戦でトルコに逆転勝利して白星発進した日本は、その後も連勝街道をひた走ったが、予選リーグの最後に高い壁が立ちはだかった。優勝候補の一角に挙げられていたスペインだった。複数のビッグマンを擁する相手に、1Qから2ケタ差をつけられた日本は、52-71と完敗に終わった。その結果、日本、スペイン、トルコが4勝1敗で並ぶ三つ巴となり、得失点差で日本は3位で決勝トーナメントに進出した。
準々決勝でイスラエルに64-43で快勝した日本は、準決勝で再びスペインとの大一番を迎えた。結果は、53-51で日本が勝利。「ディフェンスで勝つことができた」と鳥海が語ったように、試合序盤から日本のディフェンスが機能。最後も2点リードで迎えた残り10秒の場面でコンタクトの強いディフェンスから相手のミスを誘い、わずかな差を死守して勝利を収めた。
試合後、チームはセンターサークルで円陣を組み、「明日の決勝は絶対に(勝利を)取りに行くぞ!」という京谷HCの声に「オッケー!」と全員で応えた。そして「イチ・ニ・サン、ニッポン!」の掛け声で締めると、鳥海はスペインにリベンジを果たし、自分たちこそが明日は金メダルをつかむんだ、という高ぶる気持ちを抑えきれなかったのだろう。天井を見上げながら、一人、雄たけびをあげた。そんなエースの燃え滾る姿に、チームメイトたちも拍手や拳を突き上げて応えた。
事実上の決勝戦となったスペインとの死闘を制した日本の勢いは止まらず、決勝もトルコに52-47で勝利し、優勝。日本車いすバスケットボール界にとって史上初の金メダル獲得の瞬間、鳥海は親友でもある髙柗の胸に飛び込むようにして、喜びを分かち合った。
そして表彰式後には、リングの上によじ登り、チャンピオンだけが許される“ネットカット”をした。そこには、ふだんメディアの前で見せるクールなイメージとはまったく違う、まるで少年に戻ったように無邪気な笑顔を見せる素の「鳥海連志」がいた。
その1年後、鳥海にとって新たな挑戦が始まった。企業にアスリート社員として雇用される形ではなく、車いすバスケットボール選手として独立し、プロアスリートに転向したのだ。そしてアシックスとの所属契約を締結し、同社初のプロパラアスリートとなったことも同時に発表された。
プロへの転向は、それこそ大きなリスクを伴う挑戦でもある。確かに、東京2020パラリンピックを契機にパラリンピック競技やパラアスリートは日本社会に広く認知されるようになった。とはいえ、競技スポーツとして市民権を得たとは言い難い。そんななかでパラアスリートがプロとして活動していくことは、決して簡単ではないからだ。それでも恵まれた環境を自ら飛び出し、リスクを背負ってまでプロに転向した理由とは何だったのか。
「環境に対する不満はまったくありませんでした。問題は僕の中にあった。このままでは環境に甘えてマンネリになってしまうなと思ったんです。だから自分にプレッシャーを与えたかった。そうして原点に戻り、モチベーションを上げていかないと、このままでは成長が止まってしまうと思ったんです。それと、もう一つは車いすバスケをもっと発展させていきたいということ。ただそう言いながらも、周りがやってくれることを期待して待っているような、そんな自分にもやもやしていました。だからプロに転向することで、より自分自身の活動を通して車いすバスケやパラスポーツを盛り上げていけたらと思ったんです」
今、鳥海の頭に描かれているのは、プロのパラアスリートが次々と誕生し、それが当たり前になる未来だ。そして、その開拓者の一人となることを決断してのプロ転向だった。
「鳥海連志にとって、プロフェッショナルとは?」そんな質問を投げかけたことがある。鳥海の答えは「どれだけ車いすバスケを本気で楽しめるか」だった。その理由を、こう語る。
「プロとして一番大切なのは、どれだけバスケットにつなげて考えられるか、考えようとするかだと思っています。そういうなかで、僕はどれだけ車いすバスケを楽しんでやっているかってすごく重要な気がするんです。楽しいと思うから成長にもつながるし、得られるものも多い。好きだから苦しい練習もするし、食事も睡眠も入浴も生活のすべてをバスケットにつなげて考える。そしてこれが4年後の結果につながると思うと、ワクワクする。そういう気持ちが、自然といろいろなことをバスケットにつなげようとするんじゃないかなって。そう考えると、本気で楽しいと思えるかどうかって、プロとしてとても大事なことだと思います」
こうして23年9月、プロ活動がスタートした。しかし、車いすバスケットボールは実に厳しい競技の世界でもある。鳥海にとってプロとして初めて臨んだ公式戦で、男子日本代表にとって史上初の挫折が待ち受けていたーー。
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鳥海連志(ちょうかい・れんし)
1999年2月2日、長崎県生まれ。両手足に先天性の障がいがあり、3歳の時に両下肢を切断。中学1年で車いすバスケットボールを始め、2013年、中学3年時にアジアユースパラゲームズに出場して銀メダルを獲得。翌14年には日本選手権に初出場し、日本代表候補の合宿に初招集された。15年10月のアジアオセアニアチャンピオンシップで日本代表デビューし、16年リオデジャネイロパラリンピックに出場した。17年、男子U23世界選手権でベスト4進出し、オールスター5を受賞。東京2020パラリンピックでは銀メダル獲得に大きく貢献し、IWBF(国際車いすバスケットボール連盟)が実施したファン投票でMVPに輝いた。翌2022年には男子U23世界選手権で日本車いすバスケ界史上初の金メダル獲得の立役者となり、オールスター5にも選ばれた。現在アシスタントコーチを兼任する神奈川VANGUARDSは2024年度の天皇杯で3連覇を達成。2大会ぶり2度目のMVPに輝いた。2023年にプロ宣言をし、パラアスリートとして初めて株式会社アシックスと契約した。
写真/X-1 長田洋平/アフロスポーツ ・文/斎藤寿子