今や日本のみならず世界の車いすバスケットボール界において、希代の逸材の一人とされる鳥海連志。なかでも脚光を浴びた東京2020パラリンピックでの活躍によって、彼の名は全国、そして世界へと知れ渡った。そんな彼が日本代表デビューして、今年で10年。そこで本シリーズでは鳥海が歩んできた“10年間”の道のりを5回にわたってお届けする。シリーズ最終回は、ロサンゼルス2026パラリンピックに向けて本格的にスタートする海外挑戦、そしてこの10年を振り返ると同時に、これからの“鳥海連志”について語ってもらった。
▶日本代表・鳥海連志 10年の言葉① 「自分は世界で全然だった・・・」を読む
▶日本代表・鳥海連志 10年の言葉➁「あのままバスケを辞めてもおかしくなかった…」を読む
▶日本代表・鳥海連志 10年の言葉③ 「軽さに逃げるという選択肢はなかった」を読む
▶日本代表・鳥海連志 10年の言葉④「本気でバスケを楽しめるか?」を読む
車いすバスケットボールは、パラリンピック競技で最も花形と言われている。世界的にも高い人気を誇り、競技人口もチーム競技の中では断トツに多い。だからこそ、勝ち続けることはそう簡単ではない。さらにパラリンピックの出場枠が男子は12から8と半数に激減し、厳しい時代へと突入した。
そんななか、男子日本代表は東京2020パラリンピック以降、“世界一決定戦”から遠のいた状況が続いている。22年アジアオセアニアチャンピオンシップ(AOC)を新型コロナウイルスの影響により途中棄権したことで、翌年の世界選手権への出場権を獲得することができなかった。そして昨年1月のAOCでは4位に終わり、12大会続いたパラリンピック出場を逃す事態にまで陥った。
その過程で鳥海の気持ちには変化が起こっていた。もともと、将来海外でプレーすることを考えてはいたが、東京パラリンピック後、彼の気持ちは国内に向かうようになっていた。その理由をこう語っていた。
「東京パラリンピックで初めて車いすバスケや僕のプレーを見て、興味を持ってくれた人がたくさんいることが本当にうれしいです。ただ、これを一過性のブームで終わらせてはいけないと思っていて、日本でやるべきことがたくさんあるなと思っています。だから今は、海外でプレーすることは考えていません」
その言葉通り、鳥海は精力的に活動し、なかでも所属する神奈川VANGUARDS(23年度に「パラ神奈川SC」から名称を変更)への思いは並々ならぬものがあった。キャプテンとして、アシスタントコーチとして、チーム強化を推し進め、天皇杯ではコロナ禍後に再開して以降、無傷の3連覇を達成。鳥海自身はそのうち2度、MVPに輝いた。
だが、その一方で日本代表としては不甲斐ない結果が続き、日本のエースの気持ちは再び海外へと向き始めた。24年のAOC後のインタビューで、彼はこう語っている。
「自分たちがパラリンピックに出場できないことは、本当にショックでした。世界選手権、パラリンピックと連続で逃し、日本と世界との距離はどんどん開いてしまい、とても厳しい状況にあると感じています。ただ、僕自身は次に向けて気持ちの切り替えは早かったです。最後の(AOCの)三決が終わった後に自分なりに気持ちを整理して、日本に帰国するフライトの中で気持ちはもう次に向かっていました」
AOC後、鳥海が選び、進んだ先の一つが、海外だったのだ。
帰国後、まず最初に着手したのは車いすの高さを最大まで上げることだった。新しい車いすの高さは、9年前のリオデジャネイロパラリンピックからは約30センチも高くなった。それが海外勢の中でどう優位に働くのか、逆にうまくいかないところはどこか、それを見極めたいと考えた。そこで、鳥海が渡航先に選んだのが隣国の韓国リーグで、地域のクラブチームに所属してプレーした。選手のレベル自体は「日本とあまり変わらなかった」というが、国際審判員の人数が少ない韓国リーグでのジャッジは日本とは異なり、強いコンタクトをすればすぐにファウルを取られたという。チームの人数も少なく、ファウルトラブルだけはさけなければならないという状況下では「これまで自分がやってきたようなディフェンスはなかなかできなかった」と語る。
ただ、韓国の選手たちのシュート決定力の高さなど個々のスキルは高く、「そういう部分ではマックスまで上げた車いすでプレーしてみて参考になることがとても多かった」と鳥海。新しい車いすにしてから日本代表での試合が少なかったことを考えると、「韓国に行ったことでいろいろと試せる部分があった」という。「自分のこの高さが海外相手にどういう利点があるか、何が有効的なのかを確認することができたので、非常にいい経験を積むことができました」と振り返った。
鳥海は今、車いすの高さを上げたことで、以前のような俊敏性はないと感じているという。ただその分、ミスマッチを狙えるケースが増え、また高さがある分、パスも出しやすくなっている。「(高くして)最初はマイナスなことが多かったけれど、今は徐々にプラスにできることが増えてきています。それは、韓国リーグでプレーしたからこそだと感じていて、挑戦させてもらえたことにとても感謝しています」。
来シーズンは、長期間にわたる新天地での競技生活が待ち受けている。世界中から代表クラスのトッププレーヤーたちが集結し、しのぎを削り合うスペインのリーグに参戦するのだ。ドイツやイタリアなどの強豪クラブが対戦するヨーロッパクラブ一決定戦「ユーロカップ」で何度も優勝チームを輩出するほどのトップリーグでもある。鳥海が所属するのは、そのスペインリーグの中でも強豪で知られるBSRアミアブ・アルバセテだ。昨シーズンのヨーロッパチャンピオンでもあり、今シーズンは藤本怜央が所属している。そんな世界トップクラスのクラブチームで、鳥海にとって初となる本格的な海外挑戦が、今秋にスタートする。そこでの経験をすべて日本代表の復権につなげるつもりだ。
「この挑戦は、一つはパラリンピックに出場できなかったことが大きなきっかけです。現在世界のトップにいる選手たちがプレーする海外のクラブチームに身を置くことで、次のパラリンピックに向けて成長したいと考えています」
一方、そのスペインリーグに挑戦する前に大事な戦いがある。今年11月に開催が予定されているAOCだ。今回は来年9月にカナダ・オタワで行われる世界選手権の出場権がかかっており、男子日本代表は2大会ぶりの出場を目指す。東京パラリンピック以来、“世界一決定戦”の舞台から遠ざかっている日本にとって、来年の世界選手権は絶対に逃すことはできない。パラリンピックの前哨戦という意味合いもあり、ロサンゼルスへの道はそこでの経験や収穫が大きく影響するからだ。その男子日本代表において、鳥海の役割は大きく、欠かすことのできない存在であることは言をまたない。AOCに向けて、鳥海は今、全精力を注いでいる。
その代表活動も今年で10年となる。「これまでいろいろな経験をしてきて、今、一周まわってまたこれから改めて再スタートを切る感じ」という鳥海は、10年間をこう振り返る。
「東京までは日本代表が負け続けてきた苦しい道のりでした。でもそれを乗り越えたからこそ成長できたし、東京で銀メダルを取ることができたのだと思います。一方、そこからパリを目指しての道のりを振り返ると、逆に苦しんでなかったなと。なんていうか、うまいこと勝とうみたいな気持ちがあったように思います。個人としてもチームとしても成長したかというと、苦しまなかった分、その部分が薄かったように思うんです」
そして、こう続けた。
「だからこれからはどれだけ新しいチャレンジをして、それをどう乗り越えて成長していけるかだと思っています。ある意味、10年目にしてようやくたどり着いた境地かなと。一周まわって原点に戻ってきた感じです。そういうなかで今は、車いすバスケに対してすごく前向きですし、自分自身にフォーカスできています。まずは自分が成長する姿を見せることで、チームからも周りからも“認めさせる”じゃなくて“認めてもらえる”ような選手になりたいと思っています」
異次元の才能を持ち、規格外のパフォーマンスで魅了し続けているプロ車いすバスケットボールプレーヤー鳥海連志。代表歴は10年だが、まだ26歳。あふれんばかりのポテンシャルを持つ彼の全盛期は、まさにこれからだ。
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鳥海連志(ちょうかい・れんし)
1999年2月2日、長崎県生まれ。両手足に先天性の障がいがあり、3歳の時に両下肢を切断。中学1年で車いすバスケットボールを始め、2013年、中学3年時にアジアユースパラゲームズに出場して銀メダルを獲得。翌14年には日本選手権に初出場し、日本代表候補の合宿に初招集された。15年10月のアジアオセアニアチャンピオンシップで日本代表デビューし、16年リオデジャネイロパラリンピックに出場した。17年、男子U23世界選手権でベスト4進出し、オールスター5を受賞。東京2020パラリンピックでは銀メダル獲得に大きく貢献し、IWBF(国際車いすバスケットボール連盟)が実施したファン投票でMVPに輝いた。翌2022年には男子U23世界選手権で日本車いすバスケ界史上初の金メダル獲得の立役者となり、オールスター5にも選ばれた。現在アシスタントコーチを兼任する神奈川VANGUARDSは2024年度の天皇杯で3連覇を達成。2大会ぶり2度目のMVPに輝いた。2023年にプロ宣言をし、パラアスリートとして初めて株式会社アシックスと契約した。
写真/長田洋平/アフロスポーツ ・文/斎藤寿子