「子どもの頃は、とにかくずっと山を走ってました。私は滋賀県北東部の長浜市に生まれ育ちました。まるでタイムスリップしたようなレトロな街並があったり、たくさんの山に囲まれ毎年冬は雪がすごく積もるようなところですね。去年、滋賀から福井にかけて記録的な積雪で国道8号線が止まったじゃないですか。ちょうどあの辺りに家があります」
車いすバスケ界の浅野ゆう子(笑)、清水千浪はしっかりとした口調で答えてくれた。バスケのキャリアは、まだたった3年ながら、今や日本代表の欠かせないピースのひとつだ。バスケをやる前は、女子サッカーのトップリーグ・なでしこリーグ(元Lリーグ)でグラウンドを駆け抜けていた。
「小学校の時から澤穂希選手が憧れでした。サッカーは、いつかはやりたいけどタイミングがなくて。だから大学に入る時に始めようと思っていました」
愛媛大学に入学した千浪は念願のサッカー部へ入部する。ポジションは中学時代、1500M走で滋賀県大会優勝した俊足をいかした右サイドバック。とはいえ細かいテクニックなどあるはずもなく、無尽蔵のスタミナで走り続けるようなプレイヤーだった。2年間走り続けた千浪はもっと上の景色を見たくなった。ちょうど20歳の時、新潟のチームが選手募集をしていた。
「卒業してから挑戦するとなると年齢がネックになると思ったんです。とにかく早くと。大学を休学して思い切ってセレクションを受けました。アルビレックス新潟レディースというチームです。トライアウトは無我夢中で思い出せないのですが、根拠のない自信だけは人一倍ありました(笑)」
合格し、アルビレックスに入団した千浪だったが、経験も技術も未熟でなかなか試合に出ることができなかった。3年間もがいたが状況は変わらず、出場機会を求めてバニーズ京都SCに移籍した。ところが新天地で花開く前に、走り続けてきた脚が悲鳴をあげてしまう。
「膝が限界でした。高校2年生で半月板をやってから、ごまかしながら走っていました。手術して、リハビリして、走って、またダメになって…そんなことを繰り返してたら最後は主治医から『もう止めましょう。手術をこれ以上やっても意味ないし、この先、歩けなくなりますよ』と言われてしまいました」
千浪はアルビレックス時代にJAPANサッカーカレッジという専門学校に通っていた。サッカー選手という夢の後はトレーナーになるという目標を持っていた。
「25歳で引退して大阪のジムでパーソナルトレーナーとして働き始めました。その人の目標のために食事面から、運動面まで全部サポートするような感じです。やりたかった仕事だったので充実した日々を過ごしていました」
そんなある日のこと……。
「ちょっと気持ち悪くなって消化器系のクリニックに行って診てもらったら、変な影があるから、大きな病院で検査しましょうってことになったんです。そのまま救急車に乗せられて、徐々に意識がなくなり、次に目を開けたら1週間過ぎてました。途中、心臓も止まったんです。点滴やチューブ、呼吸器などが身体中に付いていて私、植物みたいだなって」
千浪の病気は“褐色細胞腫”。副腎の髄質にできた腫瘍によって、副腎が圧迫され大量のホルモンが分泌。血管が収縮し血液が流れにくくなってしまうという病状に襲われていた。
「いろいろな機能がダメになったんですが、一番酷かったのは脚の壊死です。特に右脚の指は一本、また一本と取れていき、あっという間に全部取れてしまいました。左は2つ爪がないような感じで、足首が下に向いて固まっています。靴が好きだったのに、履けなくなったから全部、姉妹にあげました」
何の前触れもなく病に倒れ、障がい者になってしまった。
「元々トレーナーをやってた時にパラアスリートも指導していました。だから車いすに乗った時の生活のことも聞いてはいたけど、実際自分が障がい者になるとは夢にも思わなかったです。なってみると未知の世界を知ることができたので、初めの頃は楽しい気持ちもありました。でも今まで好きで行っていた古着屋さん巡りだったりとか、路地裏にある良さげな居酒屋に行くとかが、やっぱりできないんですよ。そんなことが徐々にわかってきて、ああ辛いな〜って」
7か月という長い間入院していた千浪は、ようやく退院する。しばらくは滋賀の実家から通院し、1日3時間リハビリをこなす生活が続いた。それを1年ほど続け、大阪のジムにトレーナーとして復帰する。
「トレーナーだった自分に戻りたいっていうのもあるけど、やっぱり運動が好きなんでしょうね。かなりハードなリハビリだったけど、やったらやっただけ前の自分に近づくみたいな感覚が嬉しかった。それで一旦落ち着いたから何かスポーツをやろうかなと思い立って、ホームページで調べて車いすバスケに出会いました」
千浪が出会った車いすバスケチーム『カクテル』は、京阪神を活動拠点とするチームだ。今や日本代表選手を何人も抱え日本選手権5連覇中の強豪チームである。当時から攻守の切り替えが早いのが特徴だ。
「見学に行ったら、すごく楽しそうですぐにやりたいってなりました。バスケってサッカーと共通する部分が結構あって、攻撃ではワンツーとかギャップを狙ったりがそうだし、ディフェンス面もスティールを狙ったり、マンツーで付いたりと、特にカクテルは守りが攻撃的なんですよ。私もサッカー時代はディフェンダーだったから、バッチリ合いました。だから面白いし、ハマったのかもしれません」
カクテルのチーム練習だけではなく、東京2020パラリンピックの日本代表候補の千浪は代表合宿や海外遠征、また男子チームに出向いての練習、自主トレとバスケ漬けの日々を送っている。
「楽しくて仕方ないです。できればずっとコートを走っていたい。みんなに言うと『何言ってるの?』みたいな顔されるから言わないですけど(笑)。技術的には、まだまだ覚えなくちゃいけないことがたくさんあって、付いていくのに必死です。自分の理想を10としたらまだ3くらいのレベルなので早く5は超えたいですね。東京パラリンピックですか? まずは選ばれること。そして選ばれたら気持ちのこもった、感動を与えられるようなプレイをしたいです。もちろん一番輝いてるメダルは当たり前の目標としてあります。だから願掛けじゃないけど、髪の一部分に金色を入れてます(笑)」
そんな忙しい毎日を送る千浪だが年に2回、友人と名古屋まで行ってショッピングをしてストレスを発散している。
「名古屋って来ただけでワクワクする街なんですよ。血が騒ぐっていうか。ファッションはシンプルで全体のバランスを考えてコーデします。好きな色はネイビーや赤。ブランドだったらSOPH.やMARC JACOBS、最近はcolony2139も気に入ってます。私、ネットショッピングが苦手な古い人間なんです(笑)」
そういえば、千浪のバスケ以外の夢って何だろう。
「右足を手術してリハビリをしっかりやって、もう少しちゃんと歩けるようになりたい。甥っ子、姪っ子が6人いて、最近サッカー始めた子もいるから、その子たちと一緒にもう一度、ボールを蹴りたいなって」
あきらめたらそこで試合終了ですよ、と誰かが言っていた。
千浪のゴールは、きっとまだ遥か先−—————。
【プロフィール】
清水千浪さん
しみず・ちなみ●1982年11月8日生まれ、滋賀県長浜市出身
クラス:3.0/ポジション:フォワード/所属チーム:カクテル
女子サッカー、なでしこリーグ(当時はLリーグ)でプレイ。膝のケガが原因で引退し、トレーナーの道へ進む。30歳のとき突然、褐色細胞腫の症状が出て一時は心肺停止状態に。長期入院を経て「カクテル」で車いすバスケを始めると頭角を現し、10か月で日本代表に選出された。
取材・文/市川光治(光スタジオ) 取材・撮影/名古桂士 伊藤真吾(X1) 協力/JWBF