1960年ローマ大会から世界最高峰のスポーツの祭典として歴史を紡いできた「パラリンピック」。来年には同一都市として世界で初めて2度目となる東京大会が開催される。そこで世界トップのパフォーマンスで魅了してきた名選手&名勝負にスポットを当て、パラリンピックの魅力に迫る。
世界最年少15歳でパラデビュー
先天性の四肢欠損で生まれたライリー・バット。幼少時代からウォータースポーツを楽しむなど活発な性格の少年だった。「自分は障がい者ではない」と車いすに乗ることを拒否し、移動はスケートボードだったという。そのライリーが車いすラグビーに出合ったのは、11歳の時。車いすへの印象が変わり、車いすラグビーを始めたバットは、類まれな才能を発揮し始める。13歳で代表に選出されると、2003年には日本で国際大会デビューを果たした。
パラリンピックには、翌04年のアテネ大会に車いすラグビーでは世界最年少の15歳で初出場。08年北京大会では前回の5位から銀メダルに大躍進したチームの立役者となった。さらに12年ロンドン大会では強豪カナダとの決勝でチーム得点66のうち半分以上の37トライを決めて、オーストラリア初の金メダルに導く。大会通算では160トライをマークした。
バット率いるオーストラリアは、14年世界選手権でも優勝し、世界最強軍団となる。16年リオでは決勝でアメリカに2度の延長の末に1点差で勝利し、史上初の連覇を果たした。バットはこの試合で両チーム最多の27トライを決めたが、実は緊張のあまりに「5分置きにトイレに行かなければならないかもしれない」と思ったほどの腹痛を感じていたという。それほど「最も緊張し、最高の勝利だった」と振り返っている。
いつもラグ車に付けている小さな黄色いシューズには大会ごとにテーマを記している。18年世界選手権、19年ワールドチャレンジ時は「HARD YAKKA」(「大変な仕事」という意味のオージースラング)
日本に敗れた世界選手権後、競技人生初の長期休養へ
彼にとっての転機となったのは08年。それまでは「それほど練習する必要はなく、才能に頼っていた」が、08年北京大会を境にしてパラリンピックがエリート化したのを機に毎日トレーニングするようになった。その後、10年にはカナダカップ、フォーネイションズカップ、世界選手権でいずれもMVPを獲得するなど、世界トッププレーヤーとして活躍し続けているバット。スピードとパワーを兼ね備えた超人は、31歳となった現在も世界最強軍団のエースに君臨している。
しかし、地元で開催された18年の世界選手権では、バットがキャプテンを務めたオーストラリアは決勝で日本に1点差で敗れた。肩と肘のケガを抱えていたこともあり、「5カ月間、休養するように」とコーチから助言され、競技人生で初めてラグビーから離れた時間を過ごした。当初はコーチの言葉に「冗談だろ?」と思ったが、結果的には休養を受け入れたことは良かったと語っている。代表復帰したバットは、19年に東京で開催されたワールドチャレンジの大会期間中には代表として通算300試合出場という偉業を達成した。オーストラリア選手団の共同キャプテンにも抜擢されている来年の東京パラリンピックでは前人未踏の3連覇を達成し、競技人生の集大成とするつもりだ。
Photos:Takao Ochi[KANPARA PRESS] Composition&Text:Hisako Saito