2020年東京パラリンピックから正式競技になるパラバドミントンの国際大会「ヒューリック・ダイハツJAPANパラバドミントン国際大会2017」が、9月7日~10日まで町田市立総合体育館で開催された。世界各地で開かれる世界バドミントン連盟(BWF)公認の国際大会の今季第7戦目で、日本開催は初めてだ。29の国と地域から約200人がエントリーしており、参加国・参加者数ともに最大規模となった。
パラバドミントンは大きく分けて、車いすと立位のカテゴリーがあり、障がいに応じて6つのクラスに分けられている。日本からは36選手が参加予定で、それぞれのクラスで初代王者の座を狙う。
SU5(立位/上肢障がい)の男子日本チャンピオンとしてライバルたちを迎え撃ったのは、正垣源(しょうがき げん/Tポイント・ジャパン)。8月のペルー・パラバドミントンインターナショナル(第6戦)では、シングルス準優勝、ダブルス優勝と結果を残した。
このペルーの大会で、正垣が自身の成長を測る「ひとつの指標」としていたのが、男子シングルスの世界ランキング2位で第1シードのバルトウォミエイ・ムルース(ポーランド)だった。ペルー大会前の過去の戦績は2戦2敗で、いずれも完敗していた相手だ。それまで正垣は、研究系の独立行政法人で組織運営に関する仕事をしながら競技を続けていたが、東京パラリンピックを目指すため昨年7月に所属を変え、アスリート社員としての活動を始めていた。だからこそ、「プレーヤーとしての成長を問う試合」と自身にプレッシャーをかけ、ムルースとの1戦に臨もうとしたのだ。
そして訪れた直接対決の機会。まずは予選リーグで1時間超えの激戦を、21-19、18-21、21-16で振り切り、勝利した。さらに、決勝トーナメントでも準決勝で再び激突。今度は見事、ストレートでライバルを退けた。決勝では今井大湧(たいよう/日体大)にファイナルゲームの末、敗れたが、難攻不落だったムルースを撃破したことに、正垣は大きな手ごたえを掴んだ。この時、世界ランキングは25位(現在は13位)。「自信をなくしていましたが、この大会でようやく乗り越えられたと思います」
今回の日本大会は、このムルースに加え、世界ランキング1位のチアー・リエック・ハウ(マレーシア)もエントリーした。さらに、これまでアジアパラ競技大会のみに派遣されていた中国の選手も参加。普段の試合ではあまり顔を合わせることがないだけに、怖い存在だ。いずれにせよ、どの国もどの選手も、東京パラリンピックに照準を合わせてきていることがわかる。「今回は世界選手権以上の規模になると思います。そのなかで自分がどれだけやれるか。ここで勝てばパラリンピックのメダルも近くなる。挑戦したいと思います」と語っていた正垣。抱負を語る口調はいつものように穏やかだったが、その眼は鋭さを増していた(※正垣選手の大会結果はシングルス、ダブルスともにベスト8)。
SU5のクラスでは、一般のバドミントンとほぼ変わらないプレーが展開される。ただ、上肢障がいと一言で言っても、肩から欠損している場合や、手首から先だけ欠損している場合など、その部位や程度はさまざまで、プレーにも影響する。たとえば、生まれつき右腕の肘から先が欠損している正垣は、身体の左右差によってバランスが崩れ、プッシュやドライブなど速いショットの処理の際に身体がぶれやすくなるという。
また、欠損側の右脇下の筋肉が少なく、右肩は脱臼しやすいうえ、腹筋にも左右差があるのだという。実は正垣自身、筋力差があることを知ったのは、転職をして個人トレーナーにつくようになってからのことで、これをフィジカルトレーニングで取り戻そうとしている。現在は時間をかけて身体をつくっているところだが、最近の好調さは、こうした身体への丁寧なアプローチと、倍近くに増えた練習量に支えられているようだ。
幼いころから活発だったという正垣。三浦知良選手に憧れ、小学1年時の将来の夢は「サッカー選手になること」で、中学時代はサッカー部で汗を流した。バドミントンを始めたのは高校からだ。「地元は中学にバドミントン部がない地域だったんです。でも中学時代のサッカー部の1学年先輩が高校でバドミントンを始めて、いきなりダブルスで優勝していて。スタートラインはみんな同じなので、僕にもできるかもと思って入部しました」と、当時のことを振り返る。
最初はシャトルがラケットに当たる感覚が楽しかった。真面目に素振りに取り組み、フットワークをマスターすると、次第に競技の奥深さや面白さにのめり込んでいった。国立大進学を目指し、バドミントンは高校で終えるつもりだったが、高校3年の大会は阪神大会でベスト16止まりと、納得いく成績が残せなかった。
「追求したら、もっとうまくやれるんじゃないか」
そう考えた正垣は、一転、進学した神戸大でも体育会バドミントン部に籍を置き、競技を続けることに決めた。
パラバドミントンとの出会いは、大学2年のとき。地元の障がい者バドミントンチーム・神戸風見鶏B.Cの関係者に声をかけられ、初めてその存在を知ったという。2009年の日本障害者バドミントン選手権大会に出場すると、2位になった。
「優勝していたら、パラバドミントンはやめていたかもしれませんね」と正垣。一方で、大学では初志貫徹。チームメートとの練習に励み、大学の試合に照準を合わせるため、10年広州アジアパラ競技大会の出場は見送った。そして、大学4年になった正垣は、シングルスでついにレギュラーの座を獲得する。想いを完結させた正垣は、部を引退。大学院に進みながら、パラバドミントンを本格的にスタートさせたのだった。
前職時代は、練習時間こそ少なかったが、だからこそ質や効率のいいトレーニング方法を考え、メンタルを鍛えるなど工夫をしてきた。それは、競技に専念できる環境になった今も生きているという。もともと試合中の状況判断やコントロールのよさは持ち味のひとつだが、現在はオンコートの練習で動きのいい大学生たちと打ち合い、またフィジカルの基礎を鍛え直すことで、粘りに磨きがかかった。「取れる球が増えた」と成果も現れ始めているが、あくまで3年計画の途中と捉え、焦らず、一歩ずつ歩みを進めていくつもりだ。
先日、バドミントンの世界選手権の女子シングルスで優勝した奥原希望(日本ユニシス)の活躍には、大きな刺激を受けた。身長154cmと小柄ながらコートを縦横無尽に動き回って世界を制した彼女の存在について、「励みになります。僕も小さいほう(168cm)なんで」と、正垣は笑う。
奥原同様、フットワークを生かし、先手を取られてもラリーで粘り勝つ戦術が身上だ。町田でのプレーをさらなる飛躍の足がかりとすることができるか。その活躍に注目したい。
*本記事はweb Sportivaの掲載記事バックナンバーを配信したものです。
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荒木美晴●取材・文 text by Araki Miharu 佐山篤●写真 photo by Sayama Atsushi