スポーツではさまざまな道具や用具が使用され、アスリートのパフォーマンスを支えている。そして、最新技術による用品開発がスポーツ界を進化させてきた。それは、パラスポーツも同じ。パラ陸上競技では車いすランナーのパフォーマンスに欠かすことのできないのが「レーサー」と呼ばれる競技用車いすだ。果たして、現在のレーサーにはどんな最新技術が搭載されているのだろうか。昨年の東京パラリンピックでのメダリストも使用する最新型車いすレーサー「翔(かける)」の開発を担当した本田技術研究所の髙堂純治さんにインタビューした。
ホンダと車いす陸上の深い関わり
日本が誇る自動車メーカーの一つであるホンダ。同社が車いす陸上に携わってきた歴史は古く、1978年にホンダの創業者である本田宗一郎氏が、“日本障がい者スポーツの父”とも言われる整形外科医の中村裕博士と出会ったことが始まりだ。「パラリンピック」という言葉が世界で初めて使用された1964年東京パラリンピックでは日本選手団の団長を務めるなど、障がいのある人たちがスポーツをすることを促進していた中村氏。障がいのある人たちが社会活動に参加し、自立することを目指していた。
その中村氏との出会いによって、81年にホンダは「障がいのある人たちの社会的自立を促進する」ことを目指した特例子会社「ホンダ太陽」を設立。同年には、中村氏が車いす単独では世界初の国際大会「大分国際車いすマラソン」を開催し、後に同大会に出場したランナーが「ホンダ太陽」に入社。これをきっかけに、「ホンダアスリートクラブ」が誕生した。
「ホンダアスリートクラブ」が、前身である「車いすレーサー研究会」の時代から一貫して目指してきたのが「自分たちの手で自分たちが乗る車いすレーサーをつくりたい」ということだった。その意思を受け継ぐ形で「ホンダアスリートクラブ」では、本田技術研究所の協力を得ながら本格的に車いすレーサーの開発がスタートした。
世界にカーボン車いすレーサーを発信した「極」
「世界一軽いレーサーをつくる」ことを目標に、2002年にカーボンフレームを採用した車いすレーサー試作1号車が完成。その後さらに開発プロジェクトが本格化し、改良が重ねられていった。そして“もっと多くの人たちにホンダのレーサーに乗って、走る喜びを感じてもらいたい”というコンセプトのもと、13年より自動車部品メーカーの八千代工業との共創体制により、開発されたのが「極(きわみ)」。それまで開発された車いすレーサーは、主に「ホンダアスリートクラブ」の選手が使用していたが、量産技術を確立し「極」を一般販売したことで大きな反響を得た。
海外ランナーで初めて「極」を使用したのが、エレンスト・ヴァン・ダイク(南アフリカ)。ボストンマラソンでは歴代最多となる10回の優勝を誇り、そのほか数々の国際レースで活躍してきた世界トップランナーの一人だ。彼が2015年に「極」に乗ったことが、カーボン車いすレーサーの認知度をさらに高めるきっかけとなった。
「世界トップクラスの高性能レーサーとして海外のトップランナーにも乗っていただけるようになり、実際にレースで好成績を収めてくれましたので、ようやくこの頃からカーボンフレームの車いすレーサーの良さを広く知っていただけるようになりました」と髙堂さん。「極」によって、カーボン車いすレーサーの知名度が一気に高まった。
アスリートの力を最大限に引き出す「翔」の最新技術とデザイン
そして、「ホンダアスリートクラブ」発足以降、開発を進めてきた20年間の集大成として、19年に誕生したのが「翔(かける)」だ。その特徴は、さらなる“高性能化・高機能化の追求”と、新たに“すぐれたデザイン性”を加えた点にある。その「翔」に込められた思いを、髙堂さんはこう語る。
「『極』は非常に性能に優れたレーサーで、私も手応えを感じていました。しかしその後、契約アスリートを含めて社内で話し合った中で、“ただ速いというだけではなく、アスリートが乗っていて笑顔になったり、あるいは見ている人たちからもかっこいいと思われるようなものを作ろう”ということになりました。車いすランナーのアスリートとしての魅力や、車いす陸上の楽しさを伝えることによって、パラスポーツの素晴らしさをもっと広く知ってもらいたいと思ったんです。そのため、見た目の美しさにもこだわりました」
メーカーとして第一義であるレースで勝つという結果だけを重視するのではなく、実際に使用するランナーの思いや、パラスポーツの普及拡大においても思いを馳せているところにこそ、創業から脈々と受け継がれてきたホンダブランドらしさがある。
機能と共に美しさを追求した「翔」
では、「翔」には、どのような特徴があるのだろうか。一つは、F1やHondaJetで培ったカーボン技術を駆使したカーボンモノコックフレームで、従来の剛性性能を保持しつつ超軽量化を実現。従来のパイプ構造のフレームより効率よく力の伝達ができる。さらにウイング形状のフレームにより、走行時の安定性が高まり、トップスピードの向上が期待できる。
車いす陸上では、風よけのために前の選手の後ろにピタリとついて走ることが頻繁に行われるが、ホンダのサポート選手である西田宗城選手によれば「通常は2、3割ほど空気抵抗が低減される。ところが、空力性能が高い『翔』の後ろでは、後ろについているはずなのに、まるで自分が先頭を走っているかのように、風が前から抜けてくる」のだという。先頭を走る選手にとっては利点となり、選手からも非常に好評だ。「エレンスト選手や西田選手は非常に体格が大きく、ほかの選手の風よけに利用されやすいと思いますので、特にそうした選手には大きなメリットになっているようです」と髙堂さんも語る。
「翔」で疾走するエレンスト・ヴァン・ダイク(2019年大分国際車いすマラソン)
また、ホイールに新たなカーボン素材を採用。これによって、ホイールもまた超軽量と高剛性の両立が実現している。ウイング形状のフレームと超軽量高剛性ホイールをかけあわせることによって、アスリートの力をしっかり受け止めながら、強力な推進力を生み出すことができる「翔」は、トップアスリートのパフォーマンスを最大限に引き出す。
また、アスリートからの要望によって開発されたのが、軽量カーボンハンドリムだ。これは、雨天でも高いグリップ力を維持できるように、ダイヤモンドコーティングされている。その効果について、髙堂さんはこう説明する。
「従来は雨天の場合、選手はハンドリムに松脂をつけてグリップ力をキープさせていたのですが、走っている途中で天候が変わり、ハンドリムが乾いてくると松脂が逆効果になってしまいます。そのため、選手たちは非常に難しい選択を迫られていました。そこで、晴天でも雨天でも兼用できるダイヤモンドコーティングしたカーボンハンドリムを開発しました。ダイヤモンドの細かな粒子の間を水が抜けていくために、雨天の場合でも滑らずにグリップ力を保つことができるという効果があります」
さらに、見た目のかっこよさや美しさも追求されているのが従来にはない「翔」の最大の特徴でもある。デザイン性を高めるため、これまで露出されていたステアリング周辺のパーツを流麗なフレーム内に格納した「ビルトイン・ダンパー・ステアリング」を採用。「アスリートに笑顔を届け、人々に夢を与える憧れの存在に」がコンセプトであるデザインは、その機能美が評価され、2021年度「グッドデザイン賞」を受賞している。
2021年度「グッドデザイン賞」を受賞した、最新の2020年モデル「翔」(画像提供:本田技研工業)
世界初の「ビルトイン・ダンパー・ステアリング」開発秘話
「極」の販売から「翔」の発表にいたるまでには、約5年。最初は次の新しいレーサーをどんなものにするかの議論を重ねていくなかでイメージを膨らませ、そこから完成品を発表するまでにつくられた試作品は、数えきれないほどだ。
なかでも最も苦労したのが、優れたデザインを実現するための「ビルトイン・ダンパー・ステアリング」だという。
「開発では苦労はつきもので、試作品を作るたびにアスリートからさまざまな意見をもらって改良を重ねていくのですが、進行方向を変えるための装置であるステアリングはランナーにとっては操縦の際のフィーリングに直結するパーツになります。そのため、構造をフルチェンジした際に、フィーリングがどう変わるかが選手にとっての最大の関心ごと。技術者としては従来と同じフィーリングを得られる数値や構造にして作ったつもりでも、私たち以上に研ぎ澄まされた感覚を持っている選手たちにとっては、まったく別物になる。実は、初めてビルトイン・ダンパー・ステアリングの車いすレーサーを作って、サポート選手の山本浩之選手に試乗してもらった時は、トラックをわずか1周だけしてすぐに戻って来て、“これはとても乗れません”と厳しい意見をいただきました」(髙堂さん)
それ以降、サポート選手の意見をもとにして改良が重ねられていったが、一筋縄ではいかなかった。
「選手は構造に対する技術的なことではなく、フィーリングで意見やアドバイスをしてくれるわけです。でも、それは明確な数字などで示されるものではなく、抽象的な言葉で語られるもの。それを実際には車いすレーサーに乗れない私たち技術者が、設計するうえで数値に落とし込んでいくというのは、そう簡単なことではありません。ですから選手と何度も議論を重ね、細かく調整しては試作品を作ってという作業を繰り返しながら、少しずつ選手のフィーリングに近づけていきました」
サポート選手からのフィードバックを頼りに、技術者たちはイメージを膨らませることで設計していくという地道な作業が行われた。結果的に「これなら」と選手も納得した「ビルトイン・ダンパー・ステアリング」が完成するには、長い歳月を要した。
苦心の末に完成した「ビルトイン・ダンパー・ステアリング」。ステアリング周辺パーツをフレーム内に格納(画像提供:本田技研工業)
「こうした“生みの苦しみ”も、アスリートの活躍や笑顔によって、喜びややりがいに変わる」と髙堂さん。“翔”が発売された19年には、11月の大分国際車いすマラソンで「翔」に乗って走ったマニュエラ・シャー(スイス)が世界新で優勝し、日本人の喜納翼も日本新記録をマークした。そして、昨年の東京パラリンピックでもシャーは金メダル2個を含む計5個のメダルを獲得している。
東京パラリンピックのメダリスト、マニュエラ・シャー。「翔」はトラックでもマラソンでも真価を発揮した
現在、「翔」は2種類。19年に発表され、改良が重ねられている最新技術搭載の「翔フラッグシップ」に加えて、14年に八千代工業から販売されていた「極」と同じモデルのものが、「翔スタンダード」として販売されている。さらに「翔フラッグシップ」の廉価版として新たに開発された「挑(いどみ)」は「翔」と比較すると求めやすい価格となっており、ホンダブランドは一般ランナーからトップアスリートまで幅広い要望に応えている。
また、最新技術が搭載された「翔」は、19年の発売後もさらに改良が進められている。「さらに良いものを」を追求し続けることが、技術者の使命でもある。今後、どんな車いすレーサーがホンダブランドから登場するのか、注目したい。
写真/越智貴雄[カンパラプレス]・ 文/斎藤寿子