グランドスラムでシングルス28勝、ダブルス22勝の計50勝は、男子・女子・クアードを含めて車いすテニスで最多。パラリンピックのシングルス金メダル3度獲得と、ITFユニクロ車いすテニスツアーのシングルス公式戦「107連勝」は車いすテニス男子で最多……。ほかにも書ききれないほどの数々の記録を打ち立てた「世界のクニエダ」が、世界ランキング1位のままコートを去った。
1月22日に現役引退を発表した車いすテニスの国枝慎吾氏が2月7日、東京都内のユニクロ本部で引退会見を行った。約200人の報道陣が駆けつけたなか、国枝氏は終始晴れやかな表情を浮かべ、27年間の競技人生をこう振り返った。
「成績やタイトルでやり残したことはない。本当にやりきったと言える、最高のテニス人生でした」
輝かしい戦績と歴史を切り拓いてきた。それはまさに、ストイックな努力の賜物だった。
自他ともに認める負けず嫌いだ。だが、サーブが苦手でストロークに頼っていた高校時代、海外のトップ選手の実力を見せつけられ、「1位になりたい」という明確な目標が芽生えてからは、練習の取り組み方も柔軟になった。ダブルスで金メダルを獲得したアテネパラリンピックのあとは、スピードとパワーの時代に対応するために、グリップの握り方から見直した。スイングや戦術を変えることは選手生命にかかわる繊細な問題だが、日課とした1000回の素振りを練習後も遠征先でもひたすらこなした。武器となるショットを習得するために、3万球を打ち込む胆力も見せた。
そうして身につけた正確無比なショットを駆使した攻撃的なプレー、ワンバウンドで打ち返す俊敏なチェアワークを武器にキャリアを磨き、2006年に初めて世界ランキング1位を獲得。
北京パラリンピックでシングルスの金メダルを獲得した翌年の4月には、日本人として初めてプロ車いすテニスプレーヤーに転向した。退路を断ち、誰も踏み込んだことがない道を選んだ。この時、「テニス一本で生活していくことは、厳しい道と覚悟している。ただ、それを成し遂げられたら、パラスポーツに携わるたくさんの人に夢を与えられるのではないかと思っています」と語っている。その発言の重さを背負い、国枝氏は自分自身を奮い立たせて試合に出場し続け、勝ち続けた。
そして、プロ転向から1年半後の2010年11月、あるニュースが飛び込んできた。
「国枝、連勝記録が『107』でストップ」――。2007年11月から3年間負けなしだった国枝選手が、シングルスの世界マスターズでステファン・ウデ(フランス)に敗れた、という内容だった。のちのインタビューで国枝氏本人は、「実際には連勝にはこだわりがなく、連勝の数もまったく数えていなかった」と答えているが、世間は「あの国枝選手が負けた」とざわついた。他競技も含めて長らくパラスポーツを取材しているが、試合に「負けたこと」が話題となるパラアスリートは、彼が最初だったと思う。
引退会見でも話していたが、国枝氏が現役生活で戦ってきたもの、それは「相手」、「自分」、そして「車いすテニスを社会的に認めさせたい」という課題だった。そういう意味では、この2010年のニュースは3つ目の解決に一歩近づいたともいえるが、本人が想い描く理想とはまだまだ乖離があった。
「車いすでテニスをやっていて偉いね、と言われたことがある」。国枝氏でさえぶつかる社会の壁。そんな日本で、どうすれば車いすテニスが”スポーツ”として認知されるのか。国枝氏は、技術のアップデートを重ねていくとともに、自分にしかできない責務の果たし方を考えていた。
たとえば、ウインブルドン。ウインブルドンの車いすテニスの部は、グラスコートでの車いすの操作が難しいからという理由で、長らく男子と女子のダブルスのみの開催だった。しかし、当の選手たちは「車いすでもできる」とアピールし、特に国枝氏は「ほかのグランドスラムと同じように、シングルスもダブルスもあるのが当たり前だろう」と言い続け、2016年に晴れてシングルスも導入された。そこで男子と女子の選手たちがハイレベルなプレーをきっちりと見せたことで、3年後の2019年には上肢にも障害があるクアードクラスも実施されるようになった。
また、日本で唯一のATP(男子プロテニス協会)ツアー公式戦の「楽天オープン」も国枝氏の働きかけで、2019年に車いすテニスの部が新設された。国枝氏は当時、「世界のトップ選手はずっとATPツアーでの車いすテニスの同時開催を望んでいた」と語っており、3年ぶりの開催となった昨年大会も「日本でクオリティの高いプレーを見せたい」と、国枝氏自らが直前の全米オープンで他国の選手に出場を打診するなど、熱心に活動。ビザの関係で海外選手は来日を見送ったが、大会は注目を集め、満員の観客のなかで決勝を戦った。
これらの例からも分かるように、世の中の車いすテニスを取り巻く環境や人々のパラスポーツに対する見方は少しずつ、しかし確実に変わっていった。そして、それをもっとも実感したのが、競技人生の集大成となった東京パラリンピックだったと、国枝氏は振り返る。無観客開催ながら、報道等を通して、競技レベルの高さが広く知られた。大会後の反響はすさまじく、国枝氏のもとには金メダル獲得の祝福だけでなく、「車いすテニスって面白い」といった数多くの率直な感想が寄せられた。「車いすテニスがスポーツとして認められた手ごたえがあった」と、国枝氏はうなずく。
さまざまな思いが詰まった金メダルを手にしたあとも、東京パラリンピック直後の全米オープン、そして年が明けて2022年の全豪オープン、全仏オープンで勝利。さらに、これまで唯一無冠だった、前述のウインブルドンのシングルスを制する大活躍を見せた。グランドスラムタイトルは50個に増え、生涯ゴールデンスラムの偉業も達成。そして、このウインブルドンの優勝が、東京パラリンピック以降ずっと頭にあったという「引退」を決意させた。
理由について、国枝氏は会見でこう振り返っている。
「去年、グランドスラムで3勝するなど調子がよかったのは、今まで『スポ―ツとして皆さんの目を変えたい』というところに感じていたプレッシャーが、この1年間は全くなかったから。一度もそういった気負いを感じることなくプレーでき、ようやく純粋にテニスができて、相手とも向き合えるようになりました。(ウインブルドンでも)そういう戦いをしたので、もう最後の時がきたのかなと思いました」
そして、笑顔でこう付け加えた。
「女子の上地結衣選手や男子の小田凱人選手ら、若い選手が純粋にスポーツとして向き合える土台ができた。そういう環境を用意できてよかったなと思います」
車いすテニス界に、そして社会に変革をもたらした国枝慎吾氏。「キング」の称号にふさわしい、美しい引き際だった。
*本記事はweb Sportivaの掲載記事を配信したものです。
【Sportiva webサイト】
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写真/植原義晴 ・ 文/荒木美晴