車いすテニス界でいま、もっとも注目を集める16歳の小田凱人(東海理化)。2021年に史上最年少の14歳11カ月18日でITF車いすテニス世界ジュニアランキング1位に輝き、その後はシニアの大会にも参戦。昨年はドローが拡大した全仏オープンでグランドスラムデビューを果たし、ウインブルドン、全米オープンにも出場した。さらに、今年1月の全豪オープンに初出場すると、初めてグランドスラムで決勝に進出。準優勝の成績をおさめた。
「全豪オープンは会場の雰囲気が楽しいと前から聞いていて、楽しみにしていました。日本人の観客の方もすごく多くて、応援が力になりました。あと、お肉が美味しかったです」
そう言って、高校生らしい笑顔を浮かべる小田に全豪オープンを振り返ってもらった。
まず、準決勝では屈強な肉体から繰り出す強打が持ち味のグスタボ・フェルナンデス(アルゼンチン)と、死闘ともいえる熱戦を繰り広げた。互いに1セットずつ奪い、迎えたファイナルセットは3-5と相手にマッチポイントを握られる展開に。しかし、小田はここから脅威の粘りを発揮して巻き返し、ついには逆転勝利を掴んだのだった。
「楽天オープンで“あの試合”を経験していたから、それを繰り返すだけだ、まだ終わらないぞという気持ちで戦っていました」と話す小田。
頭のなかに浮かんでいた“あの試合”とは、昨年10月の楽天オープンの決勝戦、つまり先月現役引退を発表した国枝慎吾氏との対戦だ。この試合、小田は国枝氏から初めてセットを奪ったが、最終セットは1-5の劣勢に。しかし、ここから追いついて、相手のチャンピオンシップポイントを4度しのいだあとに逆転に成功。結果的にタイブレークの末に敗れたものの、この年はグランドスラム3勝と絶好調だった国枝氏に肉薄し、彼に「いつか凱人にやられる日が来る、それが今日かもしれないと試合中に何度もよぎった」と言わせた、歴史に残る一戦だった。
そして、全豪オープンの決勝の相手は、第1シードのアルフィー・ヒューエット(イギリス)。昨年末のシングルス世界マスターズ決勝では小田がヒューエットから初めて白星を挙げており、対策されていたためか3-6、1-6のストレートで敗れた。ヒューエットのプレーから並々ならぬ気迫を感じ、小田は「自分ももっとレベルアップが必要」だと感じながらも、ミスを恐れずにアグレッシブなリターンやショットを繰り出し、最後まで諦めないプレーを貫いた。
今年の全豪オープンに、これまでいて当たり前の存在だった国枝氏の姿はなかった。前述のとおり、国枝氏は1月22日に現役を引退したからだ。
実は、昨年の秋ごろに小田は国枝氏に「来年から僕とダブルスを組んでほしい」とお願いをしていたという。その時は「いいよ」という答えだったが、オーストラリアに出発する日に電話があり、「ダブルスには出られない」、続いて「引退する」と本人から告げられたそうだ。
昨年のウインブルドンでも、優勝した国枝氏とロッカールームで会った際に祝福すると、達成感に満ちたオーラをまといながら、「ごめん、俺引退するわ」と言われていたという。ただ、この時は本当に引退するとは少しも思っていなかった。「引退を口にするくらい、国枝さんにとってウインブルドンの勝利は意味のある試合だったんだな、と思っただけだった」と小田。そして、「パリパラリンピックまで続けてほしいと思っていた。もっと戦いたかった。勝ちたかった。でも、対戦できたことが光栄だし、その時間を共有できたことが満足だと、今は思っています」と、静かに語る。
国枝氏と初めて対戦したのは、2019年の楽天オープンのダブルスで、小田は当時13歳だった。シングルスでは、昨年1月のメルボルンオープン、6月の全仏オープンとフレンチリビエラオープン、そして10月の楽天オープンの4回のみ。いずれも小田が敗れている。そのなかで印象に残る国枝氏とのエピソードを挙げてもらうと、「全仏オープンでボッコボコにされたこと」という答えが返ってきた。
昨年の全仏オープンは、前述のとおり、小田にとって初めてのグランドスラムだった。「めちゃくちゃ、ワクワクしていました。4月にプロ宣言をした直後で、現地でテレビの取材も受けて、しかも得意なクレーコートだったので」。ところが、準決勝で国枝氏と当たると2-6、1-6で敗戦。文字通りの完敗だった。
「あの試合で、勢いや運で勝てる世界ではないと痛感しました。トップばかりが集まる大会で勝つには、常に平常心を保ちながら、コツコツやって挑むことが大切なんだなって。あの時の国枝さんには迫力と気合い、グランドスラムに懸ける想いをものすごく強く感じました」。王者がその背中で教えてくれた厳しさを、小田は今も胸に刻んでいる。
サッカーに夢中になっていた9歳のとき、左股関節に骨肉腫が見つかり、人工関節を入れる手術を受けた。短い距離なら歩けるが、長距離の場合は車いすを使用する。入院中にパラスポーツに関心を持ち、ロンドンパラリンピックで金メダルを獲得した国枝氏のプレーに惹かれ、退院後すぐに車いすテニスを始めた。
自分と同じ年で病気のため車いす生活になり、努力を重ねて車いすテニス界の頂点に上り詰めた国枝氏は、小田の憧れの存在だった。ただ、スポーツである以上、自身がプレーヤーとして成長するにつれて“憧れのアスリート”は、“倒すべき相手”へと変化していくものだ。小田自身、国枝氏に対して、“ライバル”という言葉も使ったし、国枝氏もまた彼の存在を注視していた。
「憧れ、尊敬、ほかの誰よりも勝ちたい相手、ライバル……。確かに、僕の国枝さんに対する選手としての立ち位置や印象は変わっていったかもしれません。でも、変わらないことがひとつあります。車いすテニスを始めてから今まで、僕は国枝さんの『大ファン』であるということ。それはずっと、変わっていません」と、小田は言葉に力を込める。
車いすテニスの競技レベルと認知度を「スポーツ」という舞台に押し上げた国枝氏は、引退会見でこう話していた。「それを託せる人たちが、すでに日本にはいる」
バトンを託された小田は、気を引き締める。
「去年は自分でも飛躍の年だったと思います。でも、一般のテニスでも、ほかの競技でも同じでしょうが、2年目も強さを維持して勝つことは、相当難しいと思っています。全豪オープンのアルフィー戦がそうだったように。なので、今季は前回勝った相手に連勝すること、そして“2年目の試練”を乗り越えて、もっと飛躍する年にしたいですね。国枝さんがおっしゃっていた『車いすテニスのスポーツとしての価値』を、僕がもっともっと広げていきたい」
次のグランドスラムは2度目の挑戦となる全仏オープン(車いすテニスの部は6月10日にスタート)だ。昨年は、ドローが8人から12人に拡大され、当時世界ランキング9位だった小田のエントリーが実現した。現在、小田は2位までランキングを上げており(2023年2月13日現在)、今年はシード選手としての活躍が期待される。
さまざまな経験を通して、どこまでスケールアップしていくか。小田の新たなステージへの挑戦に注目していきたい。
取材・文/荒木美晴