8月に開幕するパリ2024パラリンピックのパラローイングで、森卓也(養和会/CHAXパラアスリートチーム)がPR1男子シングルスカルに出場する。パラ陸上の砲丸投から転向して3年でつかんだパラリンピック日本代表の座。森は「番狂わせを起こしたい」と力強く語り、前を見据える。
パリ大会の出場権は、思わぬ形で転がり込んだ。優勝すればパリ行きの切符を手にできる今年4月のアジア・オセアニア大陸予選(韓国)。その後に最終予選も控えていたが、「必ずこの大会で1位になる」と誓い、自身にプレッシャーとハードな練習を課してきた。決勝レースはその成果を発揮し、手ごたえをつかんだ森。しかし、結果はカザフスタンの選手に敗れて2位だった。
悔しさと落胆、次の最終予選に気持ちを切り替えなければ、というさまざまな想いが入り混じるなか、帰国のため空港に向かっていた森。すると、そのバスのなかでまさかの吉報が伝えられた。優勝した選手がルール違反で失格になり、繰り上がりで森が1位になったというのだ。「これからどんな練習をすればいいんだと焦りを感じていたところで結果を聞いたので、一気に安心したのを覚えていますね」と、森は振り返る。
兵庫県神戸市出身。1995年の阪神淡路大震災で被災し、自宅が損傷。復興の仕事に従事したあと、鳥取県米子市に移り住んだ。背骨のなかにある神経を守る脊柱管が狭くなる先天性の病気があり、35歳の時に車いす生活になった。社会復帰してから5年ほど経ってようやく気持ちに余裕ができ始め、「何か自分にできることはないか」と新たな道を模索し始めたところ、パラ陸上に出会った。「鳥取県の障がい者スポーツ協会に問い合わせをしたら、たまたまパラ陸上の予選会が鳥取で開かれることを知りました。参加してみたいけれど、どんな競技がいいかわからないので選んでくださいと伝えたところ、砲丸投を紹介されました。実は、担当者の方は僕がウエイトトレーニング好きで、普段からトレーニングをしているのを誰かから聞いていたみたいです」
やるからにはトップを目指したいと、40歳から投てきの練習を重ねた森は、2018年のアジアパラ競技大会(ジャカルタ)の日本代表に選出。さらに、この大会の砲丸投(F55)で9m50の日本新記録を樹立し、翌年の日本選手権では円盤投(F55)でも日本記録を塗り替える活躍を見せた(両種目とも現在も日本記録保持者)。
ところが、東京2020パラリンピック出場を目指してさらなる強化に取り組んでいた矢先、森に新たな試練が襲いかかる。2020年の秋、練習中に投てきから車いすに移乗する際に転落。右肩の腱板を切る大けがを負ってしまったのだ。コロナ禍で入院も手術も思うようにできず、ようやく手術をしたものの、医師からは「投てきを競技として続けるのは厳しい」と告げられた。
けがの具合は自分が一番わかっている。覚悟はしていたが、やはりショックだった。それでも森は顔を上げ、医師にこう尋ねた。「ボートの動きはどうですか」。実は、ケガをする前にたまたまパラローイングの体験会に参加し、興味を持っていた森。医師からは、肩から下である程度の力を出す分にはできると言われ、「『絶対にやろう』と、心が決まった」。さっそく、手術の翌日にはインターネットで、陸上でボートの漕ぎ運動ができるローイングエルゴメーターを購入。「職場に届けてもらったので、何も知らない同僚たちが“なんか大きいものが届いた!”と大騒ぎになったみたいですが」と、笑いながら振り返る。
そこからは、ローイング一筋だ。砲丸投とは動作や使う筋肉が異なり、瞬発系と持久系という面でも違うが、投てき台でバランスを維持する身体の使い方はローイングにおおいに活きているという。また、勤務先の養和病院では医事課に籍を置き、競技との両立に理解を示してもらっている。勤務先で身体のメンテナンスを受けられるのもメリットだ。また、練習時は米子ローイング協会やサポーターらにボートの運搬などの支援を受ける。「転向して3年でパラ行きの切符をつかめたのは、本当に支えてくださる方々のおかげ。感謝しかない」と、森は言葉に力を込める。
震災で被災し、車いす生活になり、東京パラはけがで断念、とさまざまな困難を乗り越えてきた森。「たしかに本当に苦しいことがいろいろありました。でも、今がすごくいいので。困難なことがあったから、今がある。だから、全然いいんです」
パリ大会のローイング会場は、荒れるコースという話も耳に届くが、普段練習している米子の湖も午後からは波が変わり、また距離や場所を変えてあえてコンディションの悪いところを選んで練習することもできるそうだ。「そうした経験を積んで本番に臨む。もちろん成績も大事ですが、とにかく笑顔で帰ってきたいですね」
好きな言葉は「楽」。50歳で初めて挑むパラリンピックに、誰よりも真摯に向き合い、誰よりも楽しむつもりだ。
写真/植原義晴 ・ 文/荒木美晴