片足のスイマー、エリー・コール。ロンドンパラリンピックで金4個を含む6個のメダルを手にし、リオパラリンピックでも100m背泳ぎで金メダルに輝いた水泳大国オーストラリアのエースだ。
とにかく明るくて、日本好き。若い選手にも水泳のアドバイスを惜しまないエリーは、日本のS9クラス女子選手の憧れの対象である。
彼女の最大の特徴は、その美しい泳ぎだ。左前腕欠損の国内トップ選手で、リオパラリンピックでエリーとともに泳いだ経験のある森下友紀は、エリーの動画を見て泳ぎの研究をしていると言う。同じ大腿切断で若手有望選手の浦田愛美らは「まるで障がいを感じさせない」と口をそろえる。
バランスよく泳ぐ技術に秀でる彼女の強さはどこで生まれたのか――。WOWOWパラリンピックドキュメンタリーシリーズ『WHO I AM』のプロモーションで来日したエリーに聞いた。
生まれ育ったのは、カフェ文化が根付くメルボルン。そんな街から少し離れた山とワイナリーが広がるモーニントン島ペニンシュラだ。
「父が作ったログキャビンに住んでいたの。そこに母が手作りしたきれいなステンドグラスの窓があって、双子の妹と過ごした二段ベッドがあって。父は厳しかったけれど、母がいつも家にいてくれた。優しい母だったわ」
陸上選手だった父と水泳選手だった母を持ち、妹は後に射撃の選手になった。スポーツ一家に生まれ育ったエリーが世界で活躍するスイマーになるのは必然だったのかもしれない。
「子どもの頃の記憶は、学校から帰ってくるとほとんど毎日泳ぎに行っていたことばかり。とにかく泳ぐことがすごく好きだった。オーストラリアはみんな海沿いに住んでいるから泳ぐことがごく身近にあるの。幼いころからスイマーになりたいと思ってなったわけではないわ」
毎日楽しみながら泳いでいたエピソードは、オーストラリアの多くの水泳選手と変わらない。ただ多くの水泳選手とただひとつ違うのは、彼女が片足で泳いでいたということだ。
2歳で神経のガンを発症し、3歳で右足の大腿部を切断。抗がん剤治療で髪の毛も眉毛も抜けたが、まだ幼かったために病気の記憶はない。水泳は脚を切ってわずか6週間後、リハビリとして始めた。
双子の妹と一緒に水泳のレッスンに通ったが「まるでダメだった」とエリーは言う。
当時の動画が残っているが、左右の足の長さが違うため、水をかくと円を描くように体が回転してしまうのである。「テクニックはないし、ばしゃばしゃと水しぶきが上がっていて。どう見ても妹の方がうまくて、最初はレッスンに行くのが本当に嫌だった」
それでも、水のなかで泳ぐことで、もう一度体の使い方を習得していったエリー。ひととおり泳ぎをマスターした後、水泳を続けるつもりはなかったが、母に「一度だけやってみたら」と連れて行かれた、選手育成のグループレッスンに楽しさを見出した。
その後、パラの選手としての道を本格的に歩み出したのは12歳のとき。泳ぐことは好きだったが、健常者の試合に出てもなかなか勝つことができず、学校単位の代表選手にもなれない。そんな彼女を見ていた体育教師がある日、エリーに言った。「パラリンピックって知ってる?」。そのとき初めてパラの世界を知り、驚いたエリーだが、自分と同じ一本足のスイマーと競ってみたいとビクトリア州の大会に出ることを決めた。
かくして、初めてパラの大会に挑戦したエリーだったが結果は最下位。意気込みすぎたのか、スタートの飛び込みでゴーグルが外れてしまったのだ。「ゴーグルをつけて泳ぎ直したから最後になっちゃって。帰り道に泣きながら『二度と負けたくない』って思ったわ」
エリーは自身を“負けず嫌い”と表現する。「もしかして初めての大会でビリだったあのとき、競争心が生まれたのかもしれない」
その日を境に練習量を増やし、パラ水泳のオーストラリア代表として、世界大会にも出場するようになったエリーは、最大の“目標”と出会う。
南アフリカのナタリー・デュトワ。パラリンピックの水泳で金メダルを量産しながら、北京大会ではオリンピックにもオープンウォーターで出場したパラリンピック界の超人だ。
「ナタリーはすごい人だけど、勝ちたかった。12歳の時からずっと。目標でありライバル。だって、彼女が世界記録をすべて持っていたから」
2008年北京パラリンピックで銀メダルだったエリーは、AIS(オーストラリア国立スポーツ研究所)に練習拠点を移し、オリンピック選手と同じ環境で水泳漬けの日々を送った。
迎えた2012年のロンドン大会。必死で練習したエリーの努力は実る。100m背泳ぎや100m自由形で4つの金メダルを含む6つのメダルを獲得。みなぎる自信とエネルギー、そして選手を盛り上げた観声の「すべてがパーフェクトだった」と振り返る。
ロンドンパラリンピックは、この大会を機に引退することになっていたナタリーと最後に勝負できる機会でもあった。そして、2種目で彼女に勝利を収めた。
「憧れの彼女にも勝てた。最高だった」
だが、実はその代償は決して小さくなかった。1年前から痛みを抱えていた両肩は、悲鳴を上げていた。肩関節の軟骨が傷つき、血流が滞っていた。休まなければ治らなかったが、休む選択肢がエリーにはなかった。「ナタリーと戦いたかったし、あのとき、休めるわけがなかった。でも、今思うともっと自分を大切にすべきだったと思うわ」とエリーはやさしく微笑んだ。
両肩の手術の後、見事な復活を遂げた彼女は、リオパラリンピックで金メダルを獲得。現在も、S9クラスのトップスイマーとして活躍し、2020年東京パラリンピックを目指す。
実はエリーは幼いころ、父の仕事で短期間日本に住んでいたことがある。日本の絵本も読んだし、大学で少しだけ日本語も勉強した。
だからこそ、東京を楽しみにしていることは想像に難くないが、最近、以前より交流のあるオーストラリアの名スイマー、イアン・ソープとこんな計画を立てたという。
「東京パラリンピックでは、レースの後に聞かれるであろう質問の答えをあらかじめ考えておき、それを日本語で暗記して答えられるようにしたらステキだねって」
大好きな日本についてこんな思いも語る。
「パラリンピックを通して、今まで日本の多くの人が目を向けてこなかったことに目が向き、スポーツだけではなく、仕事における環境とかいろんな部分で理解するようになるのはすごくいいことよね。(同じクラスの日本のパラリンピアンである、一ノ瀬)メイちゃんに話を聞いたのだけど、以前彼女は、水泳の練習で他の障がいのないスイマーと練習を別にされちゃうことがあったと言っていたの。でも、オリンピック・パラリンピックが開催されることが決まって、それをきっかけに日本がどんどん変わっていて、今は障がい者と障がいがない人たちの境界線がすごく薄くなってきたと言っていたわ。きっと皆、そんなに違いはないと理解してきたのね」
3度のパラリンピックで最も印象に残っているのは、大歓声の中で泳いだロンドン。「東京パラリンピックではできるだけ多くの人に会場に来てもらえたらうれしいわ」
パラの世界に飛び込んだとき、不自由そうな見た目の人がものすごいスピードで泳ぐのを見て衝撃を受けた。人は持って生まれたものや見た目だけによるのではなく、努力によって成果が得られる。それを伝えたい。
「私は運がよかった。家族がいつも守ってくれたし、悲しいことがあっても励ましてもらえた。片足がないからって、人にジロジロ見られても気にならないし、いじめられた記憶もない。たぶんね、私は自分の障がいを受け入れていたし、それを恥ずかしいと思うような影がなかったからじゃないかな。だって、障がいがなくても、弱さや自信がないとつけ込まれるものじゃない?」
リオの金メダリストは、東京でも輝くメダルを胸にして、彼女だからこそ伝えられるメッセージを発信するつもりだ。
■番組情報
IPC×WOWOWパラリンピック・ドキュメンタリーシリーズ『WHO I AM』
IPC(国際パラリンピック委員会)とWOWOWの共同プロジェクト。2016年に放送が始まり、今年で4シーズン目となる。東京パラリンピック大会が開催される2020年まで、世界最高峰のパラアスリートたちに迫るスポーツドキュメンタリーシリーズ。
*本記事はweb Sportivaの掲載記事バックナンバーを配信したものです。
【Sportiva webサイト】
https://sportiva.shueisha.co.jp/
瀬長あすか●取材・文 text by Senaga Asuka photo by X-1