アスリートの「覚醒の時」──。
それはアスリート本人でも明確には認識できないものかもしれない。
ただ、その選手に注目し、取材してきた者だからこそ「この時、持っている才能が大きく花開いた」と言える試合や場面に遭遇することがある。
東京五輪、そしてパラリンピックでの活躍が期待されるアスリートたちにとって、そのタイミングは果たしていつだったのか……。筆者が思う「その時」を紹介していく──。
アスリートにとって、長年かけて確立させた「自分のスタイル」を変えることは大きな勇気がいる。だが、世界制覇経験もあるベテランのゴールボール選手、浦田理恵(総合メディカル)はあえて挑んだ。その成果が垣間見えたのが昨年9月、千葉市で行なわれた国際大会、ジャパンパラ競技大会だった。
ゴールボールは視覚に障がいのある選手がアイシェード(目隠し)を着け、1チーム3人で行なう球技で、浦田は2006年の代表入り以来、3人の中心で攻守の要を担うセンターとして活躍してきた。2008年の北京大会から3つのパラリンピックに連続出場し、2012年ロンドン大会では金メダル獲得にも貢献している。
ジャパンパラ大会は日本代表の強化を目的に海外強豪国を招いて行われる大会で、昨年は東京パラの会場、幕張メッセでのテスト大会も兼ねていた。東京パラ出場権を獲得済みの中国、ブラジル、アメリカが招かれ、前哨戦としても注目され、日本の選手にとっては東京パラ代表選考にも関わる重要な大会でもあった。
浦田も3試合にセンターとして起用されたが、実はこの出場は「思いがけず」実現したものだった。日本ゴールボール協会はジャパンパラ代表選手を4月と5月の欧州遠征によって選考するとしていたが、浦田はこの遠征で思うような結果を残せず、一度は代表から漏れた。ところが、大会直前に中国が出場を辞退したため、代わりに日本がBチームを急造することになり、浦田は出場機会を得たのだ。
代表落ちが決まった当初は、「すごく悔しくて、落ち込んだ」というが、「ゴールボールが好き」という原点に立ち返り、腐ることなく真摯に練習を続けた。そして3カ月後、朗報が舞い込んだ。
「もってるな、私」
コートに立てる喜びと感謝とともにプレーした浦田は、「思った以上に動けている自分」を感じながら、培ってきた地力を存分に発揮。力強いリーダーシップとともにセンターとしての輝きを取り戻した。Bチームは最下位に終わったが、「世界のボールを受けるチャンスがもらえ、手応えもあるいい大会だった」と充実の表情でコメントした姿が印象に残る。
改めて好プレーの要因を尋ねると、「前向きなマインドセット」と振り返った。きっかけは春の欧州遠征後に市川喬一ヘッドコーチから掛けられた「ミスを恐れるな」という言葉だったという。「見えないなかでプレーしているのだから完璧はない。完璧に近づけるよう努力すればいいだけだ」と。
目からうろこだった。浦田はずっと、「どれだけパーフェクトに抑えるか」にこだわり、「私が失点ゼロで守らなければ」とプレーしてきた。それがセンターに課せられた役割だと信じていたからだ。また、チーム事情もあり、たとえ調子を落としても代表センターが定位置だったことで、「私がコートで結果を出さねば」と力が入り、常に周囲の評価を気にしながら、「自分本位の小さな世界で戦っていた」ことにも気づいたという。
「もっと視野を広げて仲間を信じよう」「私が抑えるから、得点はお願いね」と改めてチーム内の役割分担を意識できた。「成長とは自分が強くなるだけでなく、チーム全体の底上げが大切」とも思い、チームへの貢献の仕方も考え直した。そして、ベテランとして自身の技術や経験を後輩に惜しみなく伝え、「未来にバトンをつなぐこと」も自分の役割と自覚した。
そんな風に前向きになったところで叶った、ジャパンパラへの出場。「自分を試すチャンス。きっともっとやれる」と、ポジティブなメンタルで新境地を切り開いた。
ジャパンパラから2カ月後には2019年の大一番と位置付けたアジアパシフィック選手権大会が千葉市で開かれた。元々のジャパンパラ正代表6人が、そのまま起用されることに決まっていたので、浦田には国際公式戦をコート外から客観的に見る貴重な機会となった。実際のプレーは見えないが、ボールの音や選手の声などから、「日本は強くなっている」と頼もしく感じていたという。チームは目標通り大会3連覇も果たした。
なかでも浦田が心強く思ったのは、自身に代わってセンターに抜擢された高橋利恵子(筑波大学)のプレーだった。代表センターという重圧をものともせず、高橋は伸び伸びと躍動し、全7試合を自責点ゼロで守り切った。
浦田は、高橋のプレーを「本能で動く」と表現する。多少、守備姿勢が崩れても、「ゴールだけは絶対許さない」と、とにかくボールを前方に弾いたりコート外に押し出した。浦田がこだわってきた「きれいに止める守備」とは異なるが、「あれでも、いいんだよね」と気づいた。失点しないことがセンターの最大の役割だからだ。
高橋はまた、大会序盤こそ遠慮がちに見えたが、1試合ごとに自信をまとい、大きな成長を見せた。そんな様子を以前なら脅威に感じたかもしれないが、今は「チームとしての成長」を重視する浦田にとって、「将来が楽しみなライバル」と評価する。だからこそ、「私もまだ負けない」と刺激を受け、厳しいトレーニングへの意欲にも繋がっている。
今年3月、東京パラ代表に6人が内定、浦田も高橋も名を連ねた。その後、コロナ禍で活動自粛となり、大会も1年延期となったが、「金メダル獲得」という目標にブレはない。浦田はそれが、ゴールボールへの注目を高め、「誰かの人生を前向きに変えるきっかけになる」と信じるからだ。
その思いは自身の経験に根ざす。1977年熊本県生まれの浦田は20歳の頃、目の難病を発症し、左は失明、右もわずかに光が感じられる程度になった。両親にすら打ち明けられないほどの失意のなか、希望をくれたのがゴールボールだった。2004年夏、アテネパラリンピックで日本女子が銅メダルを獲得したとテレビニュースで耳にし、「視覚障がい者が球技?」と驚き、勇気を得た。
「見えなくなって、できないことばかり」と決めつけていた浦田の人生がまた、動きだした。すぐに地元のチームに入るとのめり込み、いつしか代表センターに選ばれ世界女王にもなれた。「私も、誰かにプラスのエネルギーを与えられるように、1日1日を丁寧に積み重ねたい」
新たなスタイルで強みを増した浦田と、彼女を擁するチーム・ジャパン。ともに成長できる日々はまだ1年もある。
*本記事はweb Sportivaの掲載記事をバックナンバーを配信したものです。
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星野恭子●文 text by hoshino Kyoko 吉村もと●写真 photo by Yoshimura Moto