アスリートが表舞台で見せるパフォーマンスの背景にあるのは、“日常”の積み重ねだ。本番での輝きは一瞬に過ぎない。その一瞬を追い求めて、アスリートたちは長い年月をかけ、ときには葛藤しながら“挑戦”と“成長”の日々を送っている。その一人、世界で唯一の2mを跳ぶ義足ハイジャンパー鈴木徹の東京パラリンピックまでの軌跡をたどる。
競技歴20年、初めて襲い掛かったバーへの恐怖心
昨年の世界選手権で銅メダルを獲得し、東京パラリンピック出場の内定を決めた鈴木。19歳で初めて出場した2000年シドニーパラリンピックから6大会連続の出場となる。パラリンピックでの過去最高は12年ロンドンと16年リオでの4位。自国開催の東京では、悲願のメダル獲得を狙う。
しかし、メダルだけが鈴木の目標ではない。どちらかというと、メダルは付随してくる結果に過ぎない。心の底から欲しているのは“自分史上最高超え”の跳躍である。だからこそ今年、1年延期を機に新しい挑戦を始めた。
9月に開催された日本パラ陸上選手権では、その新たに挑戦している跳躍にわずかながら手応えを感じることができた、というコメントを寄せていた鈴木。だが、今シーズン最後の公式戦となった11月の関東パラ陸上大会を直前でキャンセル。そして、陸上競技人生21年目にして初めてオフシーズンを経ることなく、トレーニングを開始した。果たして、何が起きていたのか。
「関東パラを棄権することにしました」
そう鈴木から連絡があったのは、大会前日のことだった。
鈴木自身が「自分史上最高だった」と語る2017年の世界選手権を超える跳躍を目指し、今年挑み始めた新フォーム。その第一段階として、9月の日本選手権では「踏み切った時の逆の脚の振り上げの速さ」に対して手応えを口にしていた。そして2カ月後の関東パラでは、上半身の部分で手応えを感じる跳躍をしたい、と語っていた。
しかし、大会直前に棄権することを決断。実は、鈴木自身にもまったく想像すらしていなかった競技人生初の事態が起きていた。棄権を知らせるメッセージには、こう綴られてあった。
「一時、どうやって跳んだらいいのかわからなくなりました。競技歴20年で初めてです」
現在、鈴木が目指している跳躍は、大きく分けて3つのポイントがある。
①踏み切った時の逆の脚の振り上げの速さ
②踏み切った後、一度体をピークの高さまで垂直に上げ、そこからバーに向かう“台形型”の空中フォームの構築
③空中時で一瞬力を抜き、しなやかさを作り出す
このうち、9月の日本選手権では①の踏み切り時の振り上げの速さに対して手応えを得ていた。実戦で掴みたいと考えていた“体が吹き飛ばされる”ような感覚があり、よりパワーの出力が大きい踏み切りの“片鱗”が見え始めていたのだ。
基本に戻り、取り戻した跳躍の感覚
そこで日本選手権後は、踏み切り時の動きをさらに磨きつつ、次のステップとして②と③にも取り組み始めた。ところが、その作業は予想以上に困難を極めた。
これまでは、踏み切りの直後に上半身を倒しながらバーの方に向かっていた。しかし、体が上がりきらないままバーを越えようとするそのフォームでは、これまで以上の記録を期待することはできない。東京パラリンピックでのメダル争いと予測されるのは、2m05から2m10。自己ベスト2m02の跳躍を超えるには、空中フォームの改良は必然だった。
ところが突然、鈴木の前に立ちはだかったのは“恐怖心”だった。
「日本選手権で少しではありますが、手応えを感じた下半身の動きに対して、上半身を合わせていこうと考えていました。そのためには、踏み切った直後の上半身がバーの方へ倒れていくのを我慢して、一度真っすぐ上に上がっていく感覚を掴みたかったんです。でも、1m80さえも跳べなくなってしまって、迷いながら跳んでいたら、最後にはバーへの恐怖心が出てきてしまいました」
それは、関東パラを2週間後に控えた10月26日のことだった。一人で地元の陸上競技場で練習をした際、それまでに経験したことがなかった絶不調に呆然となり、思わずバーの前で「あれ? 跳ぶってどういうことだっけ?」と考え込んだという。そんなことは20年間の陸上競技人生で初めてのことだった。その日、鈴木は師事する福間博樹コーチに電話で大会を棄権することを告げた。
だが、福間コーチには想定内のことだったようだ。「跳び方がわからなくなった」という鈴木の言葉にも、まったく驚いていなかったという。その3日後の10月29日、福間コーチの指導の下、ナショナルトレーニングセンターでの練習では、数日前の不調がまるで嘘だったかのように、鈴木は調子を取り戻していた。その要因を、こう分析する。
「そのフォームにたどり着くためには、内面の感覚が必要なんです。ところが、僕は目に見える外見のフォームだけを追い求めてしまった。その結果、まったく跳ぶことができなくなってしまったんです。なので、今までと同じように、まずはしっかりと足で地面をとらえて跳ぶということに意識を戻しました。そしたら、自分でもびっくりするくらい余裕で跳べてしまいました(笑)」
踏み切り後の新しいフォームを求めるあまり、いつの間にか踏み切り前の助走の部分に粗さが出てきていたのだという。足の回転は速くても、“空回り”状態でパワーを生み出していなかったのだ。そこで、福間コーチの指示通り、回転数を落としてでも、まずはきちんと丁寧に踏み込みながら助走することを意識した。その結果、鈴木は跳躍の感覚を取り戻すことができた。
両脚からパワーを生み出す“ガツン”の感触を求めて
福間コーチからは「関東パラに出てもいいんじゃないか?」とも言われたが、鈴木はやはりキャンセルすることにした。すでに大会への気持ちを切らしていたからだ。
一方で、ある決断をした。オフを取らずに、来シーズンに向けてスタートを切ることだった。これもまた、競技歴20年で初めての試みだという。
「例年は、秋にシーズン最後の大会を終えると、1カ月ほどオフを入れるんです。その間は、トレーニングはまったくしません。大半を家族との時間を大切にしながら、心身ともにリフレッシュさせるんです。でも、コロナ禍の2020年は春先に十分にオフの時間ができました。なので、来年に向けてはオフなしで、冬季トレーニングに入ることに決めました」
現在、鈴木は隔週のペースで陸上競技場での跳躍練習をしている。そのうち月に一度は、ナショナルトレーニングセンターで福間コーチの指示を仰ぐのがルーティンだ。跳躍練習以外の日は、ジムでのフィジカルトレーニングを行っている。
調子を取り戻してからは、焦らずに、一つ一つの動きを丁寧に構築し続けている。見た目からでもわかるのは、日本選手権で手応えをつかんだ踏み切り時の逆脚の振り上げが加速しているという点だ。これまでは健足側の左脚で地面を捉えると同時に、義足側の右脚も振り上げるというタイミングだった。つまり、右脚は左脚のやや後ろ側にある状態だった。
しかし、今はまるで違う。左脚で地面をつかんだ瞬間には、すでに右脚の膝は左脚の膝とほぼ同じ位置にある。そのために、左脚で地面の力を得ると同時に、遅れることなく振り上げられる右脚からも力を得ることができる。それが高さを生み出すことにつながるのだ。しかも、この動きがほとんど無意識にできるようにまで“自動化”されてきているという。しっかりと体にしみこんできた何よりの証である。
だが、まだ完璧ではない。鈴木によれば、左脚が地面をとらえる瞬間と、右脚の振り上げのタイミングに少しズレが生じているのだという。「そのタイミングがガツンと決まるようになると、より大きなパワーが生まれるはず。今は少し力が抜けてしまっているような感覚がある。ほんの一瞬の“ガツン”がまだ一度もない」という。しかし、“課題”とは“伸びしろ”や“可能性”を映し出す鏡でもある。鈴木にとっては、プラス材料でしかない。
そして、その踏み切り時のタイミングが合ってくると、次のステップも見えてくる。踏み切りの後、まるで発射した直後のロケットのように、一度垂直に体を上空に引き上げるというフォームの構築だ。そして、その先にある、体の力の“抜き”もまた、つかみ切れていない。
「これまでは上空ですぐにバーに向かって体を倒していたんです。だから高さを生み出す前に、体が横になっていた。そうではなくて、まずはしっかりと体を最高到達点まで引き上げること。その時に、最初から体が伸び切らずに、ほんの一瞬の力の“抜き”を作りたいんです。力が入ったままの状態では、体が硬直してしなやかさが出てこない。この一瞬のしなやかさが、バーを越える空中姿勢を生み出すんです」
“自分史上最高の跳躍”超えの挑戦は、始まったばかりだ。だが、一歩一歩、着実に、確実に、鈴木の跳躍は変化を遂げている。
東京パラリンピックまで、残り9カ月。今後も、「鈴木徹」というアスリートの日常の積み重ねを追い続けていくつもりだ。
【プロフィール】
すずき とおる●SMBC日興証券所属
1980年5月4日生まれ、山梨県出身。中学からハンドボールを始め、高校時代には国体で3位入賞した実績を持つ。高校卒業直前に交通事故で右脚を切断。99年から走り高跳びを始め、翌2000年には日本人初の義足ジャンパーとしてシドニーパラリンピックに出場。以降、パラリンピックには5大会連続で出場し、12年ロンドン、16年リオと4位入賞。17年世界選手権では銅メダルを獲得した。06年に初めて2mの大台を突破し、16年には2m02と自己ベストを更新。東京パラリンピックでは初のメダル獲得を狙う。
写真/越智貴雄[カンパラプレス] 取材・文/斎藤寿子