昨年の東京パラリンピックで熱戦を繰り広げ、史上初の銀メダルを獲得した車いすバスケットボール男子日本代表。全8試合で先発出場し、大黒柱の一人として牽引したのが、チーム最年長37歳(当時)の藤本怜央だ。「最後かもしれない」という覚悟で臨んだ自身5度目となるパラリンピック、藤本は宣言通り“おじさんの星”として輝き、メダルを獲得してみせた。そして現在は、ドイツリーグの強豪ランディルで主力としてプレーしている。そのドイツの地で、藤本に独占インタビューを敢行。東京パラリンピックを振りかえるとともに、今後について訊いた。
リオ後に訪れた試練との闘い
19歳で日本代表デビューを果たした藤本。長年、日本の車いすバスケ界きってのハイポインターとして活躍してきた存在だ。だが、その藤本にとって、東京パラリンピックまでの道のりは決して平たんはなかった。
「もう代表としてはプレーできないかもしれないな……」
2016年、リオデジャネイロパラリンピックを終えた藤本には、次の東京パラリンピックでプレーする自分自身が全く想像することができなかった。実力からすれば、彼に代わるハイポインターは今も皆無に等しく、それこそ当時はまだまだ日本代表の絶対的な存在の一人として認識されていた。
しかし、彼は“爆弾”を抱えていた。実はリオ前から、右ヒジが悲鳴をあげていたのだ。すでに日常生活に支障をきたすほど症状は重く、リオ大会期間中は鍼治療やマッサージで痛みを緩和するほかなく、あとは気持ちでプレーしていたようなものだった。
翌17年、藤本は本格的に右ヒジの治療をすることを決意。リハビリの間は日本代表活動も休止し、完治を目指した。その甲斐あって、その年の夏には復帰し、日本代表活動も再開。右ヒジの状態は万全だった。
だが、藤本には次の試練が待ち受けていた。久々に強化合宿に参加すると、そこはもう彼が知る世界ではなくなっていた。一つは、メンバーが様変わりしていたことにあった。その年の6月にカナダ・トロントで開催された男子U23世界選手権で4強入りした若手の多くが代表候補に名乗りをあげ、急速に世代交代が進んでいたのだ。
さらに、日本が目指すスタイルもリオまでとは一変していた。攻守の切り替えを速くしたトランジションバスケに、完全にシフトチェンジしていたのだ。藤本は、自身の車いすバスケ人生の中で、初めての危機感を募らせていた。
「もう日本代表に、自分の居場所は確保されていない。これからは、自分でもぎとらなければいけないんだな」
実際にそのことを痛感したのが、その年の夏に国内で開催された「三菱電機ワールドチャレンジカップ」だった。リオまでほぼ全試合に先発出場し、フル出場も珍しくなかった藤本が、同大会では全4試合でベンチスタートとなったうえに、3試合はプレータイムが20分にも満たなかった。
ベンチで若手のプレーを見ながら、藤本は頼もしさを感じ、そして成長著しい彼らが加わった日本に強さを感じていた。「あいつらとなら、東京でメダルを取れる」。そう確信した一方で、人知れず悔しさがこみ上げていた。そして、心の中でこう誓った。
「絶対にまた、“やっぱり日本には藤本が必要だ”と思ってもらえるような存在になってみせる」
その誓いを果たしたのが、東京パラリンピックだったのだ。
苦楽を共にしてきた香西の活躍に感じた喜び
「東京パラリンピックでは、チーム最年長の自分のプレーを見て“あいつが一番若いんじゃない?”と思われるようなアグレッシブなプレーで“おじさんの星”になります!」
東京パラリンピック開幕前にそう宣言した通り、藤本は全8試合に先発出場し、日に日に増えていった車いすバスケットボールファンを魅了し続けた。なかでも彼にとってのハイライトは、予選リーグ第2戦の韓国戦だろう。14本中10本のシュートを入れ、フリースローを入れた得点はチーム最多の21得点。フィールドゴール成功率71%という驚異的な数字を残し、因縁のライバルから勝利を挙げた。
しかし、藤本に一番印象に残った試合を訊くと、意外な答えが返ってきた。彼が選んだのは、予選リーグ第3戦のカナダ戦だった。この試合で藤本自身がコート上にいた時間は、わずか7分足らずと、全8試合中、最も少ないプレータイムだった。その一戦を選んだのは、なぜなのか。その答えには、藤本のある選手に対する格別な思いがにじみ出ていた。
その選手とは、香西宏昭だ。
「カナダ戦で、宏昭は両チーム最多の24得点を挙げましたが、途中から誰も手に負えなくなっていましたよね。ディフェンスでもバチバチ止めていましたし。ベンチで見ながら『やっぱり、あいつすげぇな』って。あまりにもシュートを決めるもんだから、途中から笑うしかなかったですよ(笑)。宏昭とは、ずっと一緒に“エース”という立場で戦ってきた。その彼本来の姿を何年振りかに見れたことが嬉しかったんですよね。だから、カナダ戦はすごく印象に残っています」
藤本と香西は、年齢こそ5歳違いだが、ジュニア時代から“ダブルエース”として日本代表をけん引してきた仲だ。公式戦で初めて2人がそろって代表となったのは、2005年の男子U23世界選手権。2人の活躍で、日本車いすバスケットボール界では当時の最高成績となった銀メダルを獲得した。それ以降、藤本と香西は日本のエースとして大きな期待を背負い続けてきた。
しかしその分、数多くの悔しさを味わってきた。特に藤本がキャプテン、香西が副キャプテンを務めたリオパラリンピックは、その象徴的な出来事だったに違いない。日本は「史上最高の6位以上」を目指したものの、予選リーグで初戦から3連敗を喫し、決勝トーナメントにさえ進出できずに9位という結果に終わった。
そして、そのリオ後には若手が台頭し、危機感を抱いたのは香西も同じだった。それまで「日本が強くなるために」と語っていた2人は、奇しくもそろってリオ後は、まずは自分自身のことにフォーカスし、努力を重ねた。
その結果、藤本は開幕戦から先発出場し、第2戦では“日本代表に藤本あり”ということを証明してみせた。ところが、一方の香西はいずれも先発メンバーから外れるだけでなく、第1戦は16分37秒、第2戦は6分42秒というわずかなプレータイムしか与えられずにいた。
だからこそ満を持して京谷和幸HCが試合を託し、その期待に応えて、それまで覆っていたベールを脱ぐかのように第3戦のカナダ戦で実力を遺憾なく発揮した香西の姿に、藤本は嬉しさがこみ上げてきたのだろう。
藤本が爆発した第2戦の韓国戦、ベンチでは“お手上げ”のポーズをしながら笑顔でチームメイトとハイタッチする香西がいた。そして、それとシンクロするかのように、第3戦のカナダ戦では、藤本が香西がシュートを決めるたびに満面の笑みを浮かべていた。そこには、2人だからこそ共鳴し合うものがあったにちがいない。
新加入したチームでの新たな挑戦
すべてを出し切って銀メダルを獲得した東京パラリンピック。藤本はそこで「代表活動に一区切りをつけた」と語る。とはいえ、自ら「代表を引退する」と言うつもりはない。「代表は選ばれるものであって、自分がどうこうするというものではない」と考えているからだ。
「今すぐにパリパラリンピックを目指すという気持ちはありません。ただ、そのチャンスをいただけたとしたら、もちろん全力で頑張りますよ。とにかく1年1年だと思っています」
そんな藤本にとって、今見据えている目標はただ一つ。ドイツリーグでの優勝だ。東京パラリンピックを終えた2週間後にドイツへと渡った藤本は、現在、1部のブンデスリーガでプレーしている。長年所属したハンブルクから移籍したランディルは、香西のほか、パラリンピック連覇のアメリカ代表、ブライアン・ベルなど、各国の代表クラスの選手たちがしのぎを削り合う強豪チーム。リーグ前半戦を終え、8戦全勝で単独首位に躍り出ている。
そのなかにあって、加入1年目にして開幕戦から先発メンバーに抜擢されるなど、藤本は主力の一人として活躍している。とはいえ、欧州を代表するチームにおいて余裕などはない。「安定したチャンスはない」と語り、「まだきちんとした成果を出し切れていない」と自己評価は厳しい。
その理由の一つには、チームで求められていることが、日本代表やハンブルクとは違うということが挙げられる。これまで藤本は常に得点源であることが求められてきた。しかし、世界を代表する好シューターがそろっているランディルにおいて、藤本に求められているのはどちらかというとチャンスメイクの方だ。
もちろん、藤本のシュート力は世界トップクラスだ。それは、東京パラリンピックで十分に証明している。しかし、小柄な選手が多いランディルにおいてチーム一の高さを持つ藤本には、シューターを生かす、彼にしかできないプレーが求められているのだ。
それだけ期待されていることでもあり、それは藤本も十分にわかっている。だから、やりがいを感じている。そして、38歳にして新たな挑戦は「楽しい」と語る。
ランディルは、1月15日(現地時間)にはリーグ後半戦の初戦を迎える。チームとしては5シーズンぶり、そして藤本と香西にとっては初となるリーグ優勝に向けた戦いは、ここからが正念場。藤本のプレーが、より重要となるはずだ。
写真・ 文/斎藤寿子
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