競技への愛が原動力
26年にわたってパラアイスホッケーの日本代表をけん引してきた男が、ついにJAPANのユニフォームを脱ぐことになった。
不動のセンターフォワード、吉川守。26年前、日本代表にとって初めての国際試合となった1996年の世界選手権で13番をつけてから、実に四半世紀以上、最前線で戦ってきた。ゲームの展開を読み、ゴール前で味方のパスの軌道を変えてゴールを奪う得意技「ディフレクション」は、何度もチームの窮地を救い、息吹を与えてきた。
今年3月26日の国内クラブ選手権大会を制した長野サンダーバーズ。吉川は2004年からキャプテンを務める
パラアイスホッケーは下肢に障害がある選手によるアイスホッケー。スレッジと呼ばれる専用のそりに乗り、2本の短いスティックで氷を漕いで前進し、シュートを放つ。パラアイスホッケー界の最高峰は冬季パラリンピックだ。吉川は日本代表が初出場した1998年の長野大会、銀メダルを獲得した栄光の2010年のバンクーバー大会を含め、5度のパラリンピックを経験。はじめて出場を逃して涙に暮れたソチ大会の最終予選も、Bプールに降格した世界選手権も、彼は氷に乗っていた。原動力はずばり「パラアイスホッケー愛」。良いときも、悪いときも、どんな境遇であっても、パラアイスホッケーという奥深い競技への興味が薄れることはなかった。
そんな吉川が進退を考えたのは、昨年末のことだという。12月に行われた北京パラリンピックの最終予選(ドイツ)で、日本代表は6チーム中最下位に沈み、出場権を獲得できなかった。本気で頂点を目指したが、日本代表には技術力も、メンタルも、ゴールへの貪欲さも足りなかった。何より、「自分自身がアイスホッケーを楽しめなくなっていた」。この大会の最終戦をもって、吉川は自分の気持ちと代表キャリアに終止符を打つことを決めた。
年明けすぐの日本代表強化合宿には、参加しなかった。午後にリンクを訪れた吉川は、信田憲司監督に想いを打ち明けた。そして、そこでチームはすでに新たなスタートを切るという方針を聞き、吉川は節目となる3月末を待たずに、仲間たちに気持ちを伝えることにした。
「日本代表をリタイアします」
合宿2日目の朝、メンバーの前でそう語った。『引退』という言葉を使わなかったのは、吉川なりの後輩たちへの思いやりだった。「自分は辞めて、チームは再スタートを切るけれど、やっぱりシーズン途中だったから」。苦節のシーズンの締めくくりを、選手それぞれに全うしてほしい。そんな吉川の想いがこもった言葉を、選手たちは受け止めた。涙とともに。「みんなの顔を見てると、こっちもこみあげてきちゃってね」と、吉川は振り返る。
バンクーバー大会後、吉川に誘われて競技を始め、日本代表のエースに成長した熊谷昌治は、吉川についてこう語る。「感謝しかない。粘り強くいちから後輩を育ててくれて、僕もパラリンピックを経験できた。その想いを、今度は僕がつないでいく」
次世代育成選手として吉川から指導を受けていた松下真大も、「技術的なことはもちろん、ウォーミングアップや食事のタイミングなど、行動すべてに意味があることを教えてくれた。そこから自分はどうすればよいのか、主体的に考えられるようになった」と、自身の成長を後押ししてくれた吉川に感謝する。
バイク事故で左半身に障害
1970年、長野県飯田市生まれ。18歳の時、バイクの免許を取った友人と一緒に出掛け、自動車と衝突事故を起こした。病院に運ばれ、着用していたつなぎを切った瞬間に出血多量によって意識を失った。のちに知ったことだが、一度心臓は止まったという。左足首は解放骨折、左手は挫滅による機能障害が残る重症だった。1年間ほど入院し、長野県のリハビリセンターへ。手術とリハビリによって歩けるようになったものの、左手の握力は10キロに満たず、中学卒業後に就いた憧れの大工の仕事は断念せざるを得なかった。
パラスポーツには県のリハビリセンターで出会い、車いすテニスや車いすマラソンに夢中になった。1993年12月、4年と数カ月後に開催される長野パラリンピックに向けて、パラアイスホッケーの強豪のノルウェーチームが来日して日本の選手を指導したというニュースを聞き、さらに長野県のアイスリンクで選手の募集をしていることを知って、興味を持った。そのアイスリンクこそが現在のパラアイスホッケーのNTC競技別強化拠点になっている岡谷市のやまびこスケートの森アイスアリーナであり、日本初のクラブチーム「長野サンダーバーズ」発足の原点である。
長野サンダーバーズの第1期生としてパラアイスホッケーに取り組み始めた吉川は、1996年の世界選手権の日本代表に選出される。ちなみに、そこで与えられた背番号が「13番」だった。その世界選手権と2年前のリレハンメルパラリンピックで金メダルを獲得したスウェーデンの当時の大エース、イェンス・カスクも13番をつけていた。カスクの華麗なスケーティングやドリブルに刺激を受け、「“13番といえば吉川”、と言われるようになろうと誓った」。初心を忘れずに、という想いが詰まった背番号。それ以降は、クラブチームでも日本代表でも「13番」だ。
2019年の世界選手権(チェコ)でプレーする吉川(中央)
スティックやスレッジといった専用の用具類は、選手一人ひとりの障害にあわせたオーダーメードだ。開発は、同じ日本代表選手であり、車いすなど介護福祉用品の設計や販売を行うマツイ商会を経営する松井順一が、ゼロから取り組んだ。松井は1970年代から車いすバスケットボールなどに親しみ、パラアイスホッケーを含めてパラスポーツの普及に尽力。国内の競技発展の礎を作ったひとりだ。吉川も松井から競技への向き合い方、挨拶や道具の大切さを教わり、よりパラスポーツにのめりこんだ。「今の僕の原点となる人」だと、吉川は振り返る。
かくして、地元開催の長野パラリンピックに向けて、急ピッチで代表チームづくりが進められていく。海外遠征に行けば、現地であらゆる情報を収集し、帰国後はすぐに練習に取り入れた。そして日本代表は、初出場の長野パラリンピックで7チーム中5位の成績をおさめ、その後の活動へとつながっていくのである。
恩師との出会い、そして銀メダル獲得
4年後のソルトレークシティ大会でも5位となった日本代表。この大会後に就任した中北浩仁前監督との出会いが、吉川をプレーヤーとして大きく成長させる。中学卒業後に北米にわたり、カナダとアメリカでプレーした中北氏は、パラアイスホッケーにアイスホッケーの戦術を取り入れるなどして日本代表の改革に着手。選手の可能性を見出し、あえて厳しくアスリートとしての自覚を促し、ゴールへの執念を説き続けた。環境の変化を感じ、チームを去る選手もいたが、吉川は違った。「ホッケーの楽しさを、いちから教えてくれた」。海外の強豪国との試合も増え、どんどん上達を実感していく喜びは、唯一無二だった。
印象深いのは、中北氏の人脈でアメリカの強豪クラブチーム「シカゴ・ブラックホークス」を日本に招待して強化を図ったことを機に、現地で武者修行を行ったことだと、吉川は語る。吉川を含めて、当時の日本代表の中心メンバーで渡米し、本場のアイスホッケーにもまれた。どれだけ打ちのめされても前を向き、道具の工夫や、身体の使い方を徹底的に叩き込んだ。
我が強く、個性の集まりだった日本代表はその尖った部分を残しつつ、ひとつのチームとして形成されていく。トリノ大会ではそれが裏目に出て思うような結果を残せなかったが、彼らの努力は2010年バンクーバー大会で花開く。ライバルの入念な分析と準備が功を奏し、準決勝で優勝候補の地元カナダを破って決勝に進出。最後はアメリカに屈したものの、史上初の銀メダルを獲得したのだ。吉川はチームの司令塔として活躍。日本の13番が、世界に認められた瞬間だった。
その後、チームは世代交代が進まずに低迷期を送ったが、吉川はどんなときも自分を信じてサポートしてくれる存在に励まされ、パックを追い続けた。とくに、若いころにアルバイトをしていた地元のガソリンスタンドのスタッフは、パラアイスホッケーに懸ける吉川をずっと応援し続けてくれたという。また、所属先の中部電力では合宿や海外遠征のため長期で仕事を休むことになっても、周囲の人たちがフォローしてくれ、銀メダルを獲得したあとは、より集中して競技に臨めるように待遇を変えてくれた。
「僕は本当に人との出会いに恵まれた。応援してくれる人がいたから、頑張れた」と、26年間の想いを口にする。
日本代表は退くが、「この競技は一生涯のスポーツだから」とクラブチームでの活動は続けるつもりだ。また、屋台骨である日本パラアイスホッケー協会の運営にも協力し、とくに選手発掘事業などで新たに競技を始めようとする新人選手への指導に力を入れたい考えだ。そして、4年後のパラリンピック出場をにらむ後輩たちには厳しくも愛のあるエールを送る。
「自分の世代は先輩や海外の選手の動きを見て覚えた。今の選手は動画でいくらでも観ることができるから、映像を解析して自分の動きを修正するスキルが求められる。でも、それが出来ている選手はとても少ない。協会の仕事にしても、後輩の指導にしても、自分の存在が彼らに刺激を与えるきっかけになれば」
日本のパラアイスホッケーの歴史を築いてきた偉大な13番は、充足感をにじませながら、次のステージに向けて新たな一歩目を踏み出す。
代表引退を決め、お世話になった人たちに送った直筆サイン入りポストカード(吉川選手提供)
写真・ 文/荒木 美晴