「チャレンジド・スポーツ プロジェクト」を掲げ、多彩なパラスポーツとパラアスリート支援に力を注ぐ「サントリー」と、集英社のパラスポーツ応援メディア「パラスポ+!」。両者がタッグを組み、今最も注目すべきパラアスリートやパラスポーツに関わる仕事に情熱的に携わる人々にフォーカスする連載「OUR PASSION」。東京パラリンピックによってもたらされたムーブメントを絶やさず、さらに発展させるべく、3年目のチャレンジに挑む!
福島三春町出身の増子恵美さんは、かつて1996年アトランタ大会から2008年北京大会まで4大会連続でパラリンピックに出場するなど黎明期から車いすバスケットボール女子日本代表で活躍し、現在は「福島県障がい者スポーツ協会」の書記としてスポーツと障がいを持つ人を繋ぐための様々な活動に取り組んでいる。そんな増子さんが主な活動のひとつとして週に一度、主催している「運動導入教室」を取材するため、福島県郡山市の障がい者福祉センターを訪ねた。包みこむような温かさで参加者1人1人と真摯に向き合い、選手時代と変わらないバイタリティと明るさでパラスポーツと共生社会のさらなる発展のために尽力する増子さん。その情熱の源となっている思いを探った。
──増子さんは2015年に車いすバスケットボール選手を引退されて以来、「サポートする側」としてパラスポーツにまつわる様々なお仕事に従事されているそうですね。
実は選手として初めてパラリンピックに出場した平成8年(1996年)の6月から今の職場(福島県障がい者スポーツ協会)に事務局員として勤務し、プレーヤーも兼ねながら、障がいを持つ人たち1人1人の持つ可能性や社会に出るための足がかりを見つけるお手伝いをしてきました。引退した後も引き続きそのような仕事をしていますが、近年は「理解」と「啓発」をトータルに訴求しながら私と同じように「支える側」になる人たちの育成にも力を入れています。
──何がきっかけでそのような活動に取り組まれるようになったのでしょうか?
私自身、交通事故で脊髄を損傷して車いすになった途端に世界がすごく小さくなった気がしたんです。私の育った福島県の三春町では昔から障がいのある子供たちが一緒に教育を受けられる環境だったので、障がいを意識せずに生活をしていましたけれど、実際に自分が当事者の立場に立ってみたときに「これほど制約が多くて社会生活が不自由なのか」と感じました。そうした中で車いすバスケットボールに出会い、日本代表としてプレーさせてもらえるようになったのですが、それでも自由を感じることができなくてずっと悶々としていました。それでプレーヤー以外に何か取り組めることがないかと、若い頃は障がいのある方をサポートするための会社を作ろうと思っていたのですが、当時の協会から「うちで勤務しないか」という誘いをいただいたことで、「行政の中から変えていくほうが個人経営で何かを作り出していくより早いかもしれない」と思ったんです。
──スポーツを通して、境遇も障がいの度合いも異なる方々としっかり向き合うために増子さんの中で心がけていることはありますか?
私は子供の頃から特殊な環境で育ってきたんです。実はうちの両親、とくに母親が人助けに非常に熱心な人で、朝起きたら知らない人がよく家にいたんですよ(笑)。家出をした若者や路上生活していた人、家庭でDVを受けた親子など、いろんな境遇の方々が普通に自分の家にいて、うちが営んでいた職場で働きながら自立してもらったり社会に出るサポートなどをしたり、そういう光景や親の姿を見ていたので、困ったことがある人がいたら、まずは話を聞いて必要な情報の取得や環境作りのお手伝いをすることが当たり前という感覚でした。だから障がい云々ではなく、その人の性格や置かれている状況をきちんと共有し、個々の可能性を追い求められるように、きっかけと挑戦の準備をしてあげることを何より大切にしています。例えば、私はスポーツを通してサポートをする仕事をしていますけれど、中にはスポーツがしたいという以前に「話を聞いてほしい」という人もいるので、なんでも「スポーツをしましょう」ということではなく、まずは時間をかけてコミュニケーションを取って、気持ちが前向きになってきたら「少しずつでもいいので身体を動かしていきましょう」というスタンスでやっています。
──その代表的な活動のひとつが、ここ郡山市障がい者福祉センターをはじめ福島県の複数箇所で定期的に主催されている「運動導入教室」ということですね。
障がいがあることで何かを諦めていたり我慢していた人が一歩踏み出すというのはなかなか勇気が必要で、かつ家族も何かしらやらせたい気持ちと失敗させたくない気持ちの両方があるからこそ、この導入教室は常にスタッフ含めてプロフェッショナルな体制を整えていたいと考えています。最初の一歩が肝心だと思っています。ここでの成功経験によって自信をつけていくことで、次に自分の意思で「陸上をやってみたい」、「卓球をやってみようかな」、「クラブサークルで活動してみよう」とか、障がいのある当事者やその家族が成長していき、社会に踏み出して行ってもらいたいという思いですね。
──東京パラリンピックに出場した車いすバスケットボール日本代表の豊島英選手や車いすラグビー日本代表の橋本勝也選手らも、増子さんが主催される教室を経て本格的に競技の道に進んだそうですね。
豊島選手は車いすバスケットボール教室、橋本選手は運動導入教室がきっかけのひとつでした。関わりをもったことのある選手たちの活躍はとても嬉しいですし、自分の子供たちの成長を見ているような感覚にもなります。ただ、彼らはたまたまパラリンピック選手になりましたけれど、そういう人ばかりではなく、進学や就職していく若い人たちもいますし、歳をとってから障がいを負った人がもう一度社会復帰する上で運動不足解消のためにここに通うこともあります。ひとつ言えるのは、多くの障がいを持つ人たちにとってこの導入教室が「最初の一歩」になってくれているということ。だから私の仕事は、あくまで「きっかけ作り」なんです。
もちろんトップスポーツにチャレンジしたいとなれば、初心者からトップスポーツまで対応できるスタッフがそろっていますので、その人が望む環境となるようにサポートします。その人にとっての準備が整い、スタートラインに立てれば、あとは自身で挑戦する道を選択し進んでいきます。なので、もっと身近なところで、障がいのある人たちの個々の可能性を伸ばせる環境があることが大切だと思っています。
彼らがここに来たのは、学校の先生や主治医からの紹介でした。可能であれば、こうした環境がもっとお住まいの身近な地域にあることが望ましいと思い、現在運動導入教室では、支える側の人材育成を行っています。将来を担う学生、医療の現場にいて、障がいのある当事者と最初にコンタクトする理学療法士など、福島県理学療法士会や大学・専門学校と連携して、運動導入の意義を伝え、人材育成の場ともなっていて、この2年間で多くの方が導入教室の指導者講習会や学生ボランティアとして経験を積んでくれています。こうした地道な活動が後に、ひとりの可能性を高めてくれると信じています。
私が関わっているのはスポーツですが、選択肢が多い今の社会で、障がいがあることで、なりたい自分になるための葛藤に時間がかかっています。導入教室をきっかけに、自分が行動することで社会が変わっていくことを実感してもらいたいと思います。
──これまでの増子さんの活動を通して、行政の姿勢や考え方も少しずつ変わってきた実感はありますか?
平成8年の時点で私のような人間を招き入れようというところからして、福島県って良い意味ですごく変わっているんです(笑)。当時から障がい者雇用や、今でいう共生社会の実現に対する思いがすごく強い県だなという印象があって、スポーツ施設も一般施設を共用するユニバーサルデザインのアイデアをいち早く取り入れようとしていました。近年は多くの企業が取り入れるアスリート雇用にも積極的で、代表合宿や遠征時は特別休暇をいただけましたしお給料も固定給。だからこそ私は働きながら長く車いすバスケを続けることができました。そういう意味でも当時の福島県庁の方々の理解があったから今の私があるので、恩返しの思いも込めて仕事と競技の両立をさせてもらっていましたし、今もその気持ちは変わりません。
──福島県はまさに時代の先を走っていたわけですね。ちなみに日本代表選手としてバリバリ活躍されていた期間と、今現在とでは、増子さんの仕事への向き合い方にはどのような違いがありますか?
車いすバスケを選手としてプレーしている頃は「自分が頑張ればついてきてくれる人がいるから行動を起こす」という考え方だったんですね。それが現役を辞めた後にはまた違った方向が見えてきたと言いますか。東京大会の招致が決まった頃からパラリンピックに向けていろいろな会議に呼ばれるようになり、また東北3県でスタートしたサントリーさんのチャレンジド・スポーツ プロジェクトの活動にも携わらせていただきながら、それらの過程を通して社会のムーブメントというのはこうして作られていくのだなと。そういう意味でも我々のような当事者たちの考えだけではなく、外から見た考えというのも本当に必要なことだなと身をもって知りました。すごく視野が広がりました。
──時代が動いていく様を、その渦の中心で体感されていたのですね。とくに東京パラリンピックに向けての数年間は本当に忙しかったんじゃないですか?
東日本大震災と原子力発電所の事故もあり、生活とスポーツ環境の再建の中で、福島県のパラスポーツの取り組みが取り上げられる機会が多くなりました。パラスポーツを共に作りあげてきた福島県障がい者スポーツ指導者のみなさんを中心に地域スポーツ振興とパラ競技団体の両立を図ってきたことで、パラアスリートが多く輩出されました。被災したことにより、東北、全国から福島県のパラスポーツの振興の取り組みに注目が集まり、陸前高田市のスポーツの街づくり構想など、東北の被災自治体からも助言を求められ、私たちの取り組みやその自治体にあった目指すべきスポーツの在り方を提案してきました。そのように、この27年、障がい者スポーツ指導者と共に歩んできました。
2015年からは競技団体の理事も務めていたので、週4回ほど東京に行ったり、会議もスポーツ庁のスポーツ審議会や部会をいくつも掛け持ちするなど1日にすごい数になったりしました。また地方ではオリパラのムーブメントを追い風に地域スポーツの振興をめざし、一方で東京パラリンピックをめざす選手や関わっている人たちがベストを尽くせるようにという点にフォーカスしながら毎日いろんな仕事をこなしていました。頑張った証で一気に白髪が増えましたし(笑)、時には倒れそうになることもありましたが、自分としては本当に燃え尽きるくらい充実した6年間でした。
──そんな東京パラリンピックからちょうど1年が経ち、今あらためて見えてきたパラスポーツの今後へ向けての課題とは
パラリンピックを経て競技人口が増えたか?と聞かれて、正直なところそれほどでもないのかなと感じてしまう点です。東京パラリンピックの社会に対する影響はとても大きかった一方で、当事者たち=障がいのある人たちへの影響はどのくらいあったのかというところが実は測りきれていません。もちろんパラリンピックを見て行動力が高まった人、スポーツをしてみようと思った人、何かに挑戦しようと思った人も確実にいると思いますが、それによって競技人口が一気に増える、というところまでは行っていないのがいちばんの課題ですね。
──「やりたい」と思ったときに飛び込める環境が少ないこともその要因でしょうか。
それも大きいと思います。ある程度大きな都市部では、環境が整い、アクセシビリティ=円滑な移動が実現できているところは増えていますけれど、公共交通機関がそれほど便利ではない地方都市などは必然的に車社会になりますので、未成年や移動が困難な人は保護者や介助者の方の同伴が必要になります。その点でアクセシビリティや周辺環境の整備がもっと広く整っていけば大きく変わってくる可能性があるのではないでしょうか。そのための法改正だったり、新しいガイドラインの作成だったり、より日本の広い地域で多様性を認め合える社会が作られていけば、1964年の東京パラリンピックから半世紀を経て時代が大きく変わったように、次の半世紀で社会が次のステージに移っていくだろうなって。もちろん私は50年後を見ることはできませんけれど、10年後、20年後というのを楽しみにしてはいます。
──増子さんの考える、多様性を認め合える理想的な共生社会とは?
スポーツにおいても学校や社会生活おいても、フレキシブルな社会が理想です。「カテゴリーはあってもいいんだけれど混ざれるところは積極的に混ざる」ということでしょうか。個々の可能性を伸ばすには、とくに教育は大事。特別支援学校に通っていたとしても1週間に1回は通常学級に通えたり、いろいろな教育、選べる教育が実現できたらいいなあと思います。例えばお医者さんも警察官も学校の先生も、いちばん最初は誰もが同じ教育を受けて大人になっていきますよね。だからこそ、その根っこのところで多様性を受け入れられるような教育が当たり前になっていけばもっともっと社会は変わっていくんじゃないかなと思います。
──今、増子さんは福島県障がい者スポーツ協会での仕事のかたわら大学にも通われているそうですね。
はい、慶應義塾大学文学部の通信過程に。レポートが難しくて毎日泣きそうですし、何より時間を作るのが大変です。でもやりがいしかないですね(笑)
──なぜ文学を学ぼうと?
私は小学1年のときに教師から体罰を受けて引きこもった経験があるんです。不登校になって、そこからずっと家や図書館で本を読んでいました。それ以来、本の空想の世界で想像力が豊かになり、何か書いてみたいという思いはずっと持っていたんですね。最初はシドニーパラリンピックで銅メダルを獲得したときに、恩師に出版を勧められたのですがかないませんでした。選手を引退したときにもやるぞと思ったのですが、東京パラリンピック関連の仕事に結婚も重なったことで忙し過ぎて実現できず、仕事仲間が増えて輪が広がってきている今こそ!と思ってチャレンジしてみようと。私は一生をスポーツだけに捧げる、というのは嫌だなと思っていて、どちらかと言うと最終的には自然の中に帰りたい。海辺で夫は釣りをして、私は絵を描いたり文章を書きながら、静かに定年後を過ごしたいという思いがあるんです。
──いつか本を書こうと。
挿絵のある、エッセイのようなものを書きたいですね。それもちょっと影響を受けている人がいまして。小学2年の頃に講演でお話をうかがったことがある大石邦子さんという車いすの作家さんがいらっしゃるのですが、私が車いすになってものすごく落ち込んで入院中にむしゃくしゃしていたときに、たまたまテレビにその大石さんが出演されていて、昔と同じように「私は車いすになっても自分はありのままの自分」という話をされていたんです。その言葉にあらためて感銘を受けて、母に大石さんの本を買ってもらって読み返しました。そして故郷の情景が浮かぶような美しい文章に心を打たれ、「私もこんなふうに何かを伝えられる文章を書けたらいいな」と思ったんです。いつか、自費出版でも良いので一冊出すことが今の夢です。
──最後にもうひとつ、増子さんの人生においてなくてはならないバスケットボール、そして車いすバスケットボールの存在について。現在も「TEAM EARTH」、「SCRATCH」と2つのチームに携わっておられますが、バスケへの情熱は今も変わりませんか?
私にとっての最初の一歩、人生が動き出したきっかけが、バスケットボールでした。バスケットボールを始めたのが10歳ですから、もう42年の付き合い。途中、練習のしすぎで疲労骨折やコートに入るのも嫌になったこともありましたが、バスケは生きがいというよりも人生を救ってくれたものだと思っています。小学1年で不登校になり、運動なんて全然していなくて太陽にも当たっていないから心も身体も弱っていた私に、小学3年の担任の先生がミニバスを教えてくれたんですね。すごく優しい新任の熱血先生で、その人がスポーツ少年団を作ってくれたことが私の人生を大きく変えてくれたと思っています。不登校だった私にも友達ができて、高校までバスケと一緒に青春時代を謳歌することができましたし、何より障がいを負ってからは車いすバスケを通してパラスポーツという広い世界に接することもできました。バスケ、そして車いすバスケと出会っていなかったら、世界のいろんな国に行ってホームステイすることもなかったでしょうし、今ある出会いもなかったと思います。現在のように自分でクルマを運転して遠くへ行くような行動力もなかったと思いますから。
──東京パラリンピックでは男子が銀メダル、女子は6位入賞。車いすバスケットボール日本代表の活躍が光りましたが、2年後に迫ったパリ大会にはどんな期待をしていますか?
もちろん東京大会を超える成果を楽しみにしています。競技の結果もそうですが、選手たちが競技を通して成長し、社会に影響を与えられるような人になっていってもらいたい、という二つの期待も持っています。そして、2年後は純粋にいちファンとして現地に応援に行きたいですね。車いすバスケはもちろん、うちの導入教室でボッチャ日本代表のヘッドコーチや遠藤裕美さんという選手が頑張っているのでボッチャの応援にも駆けつけたいです。そのために、文学と並行しながらフランス語も勉強しています。
PROFILE
ましこ めぐみ●1970年生まれ、福島県三春町出身。小学3年時にバスケットボールと出会う。19歳の頃に交通事故によって脊髄を損傷し、車いす生活に。その2年後に母親の勧めで車いすバスケットボールを始め、1994年に日本代表デビュー。その後1996年アトランタ、2000年シドニー、2004年アテネ、そして2008年北京と4大会連続でパラリンピッククに出場し、シドニー大会では銅メダルを獲得。また競技と並行して1996年からは福島県障がい者スポーツ協会の職員として若手アスリートの発掘や指導にも力を注ぎ、2015年に現役を引退した後は同協会の「顔」として地元・福島のみならず東北各地を飛び回りながらパラスポーツ全般の普及・人材育成活動などに従事している。
SUNTORY CHALLENGED SPORTS PROJECT
サントリー チャレンジド・スポーツ プロジェクト
www.suntory.co.jp/culture-sports/challengedsports/
Photos:Takahiro Idenshida Composition&Text:Kai Tokuhara