国内唯一のATP(男子プロテニス)ツアー、「楽天ジャパンオープンテニスチャンピオンシップス2022」の車いすテニスの部が10月6日から8日にかけて有明テニスの森(東京・江東区)で行われた。最終日のシングルス決勝はセンターコートで行われ、第1シードの国枝慎吾(ユニクロ)がサウスポーの新鋭で第2シードの小田凱人(東海理化)を6-3、2-6、7-6 (7-3)のフルセットで破り、2019年大会に次ぐ2度目の優勝を果たした。
同大会の車いすテニス部門は19年に初めて採用され、初代王者に国枝が輝いた。しかし、20年、21年はコロナ禍の影響で大会中止となったため、今年は3年ぶり2回目の開催だった。
今年、4大大会とパラリンピックを全制覇する「生涯ゴールデンスラム」を達成した世界ランク2位の38歳と、グランドスラムにデビューするやいなや同5位まで駆け上がり勢いに乗る16歳との決戦は2時間27分にも及ぶ大熱戦となった。
試合直後の優勝スピーチで国枝は、「タフな試合だった。(小田が)ツアーデビューした2年ほど前から、『いつかやられる日が来るだろうな』とずっと思っていた。この有明の舞台で、『今日がその日なのかな』と何度もよぎった」と振り返った。
輝かしい戦歴を誇る王者にそう言わしめた一戦は、車いすテニス史上屈指の好ゲームだった。コースをつく精密なサーブやダウン・ザ・ライン、巧みなチェアワークから繰り出すネットプレーの応酬など醍醐味が凝縮していた。
第1セットは小田のサービスゲームからスタート。3-3まで互いにキープをつづけたが、国枝が先にブレークに成功し、そのまま6-3で先行する。第2セットも国枝が2-0とリードしたが一転、第3ゲームから小田がリズムをつかむ。3度のブレークを成功させ、6ゲームを連取してセットカウント1-1に。国枝とは過去3度対戦し、いずれもストレート負けだった小田が初セットを奪ったのだ。
迎えたファイナルセットも激しい展開となった。国枝が第1ゲームから4ゲームを連取したが、小田が驚異の粘りを見せ、ゲームカウント1-5から、5ゲーム連取で6-5と逆転した。第12ゲームはサーブが得意な小田のサービスゲームだったが、数々の修羅場をくぐり抜けてきた国枝が王者の意地を示す。30-30からフォアのリターンエースなどで巻き返し、4度目のブレークに成功。タイブレークでは小田が先取点を決めるも、1-1以降は終始リードした国枝が7-3で競り勝ち、安堵の表情を見せた。
「まだまだ、おじさんのパワーを見せるぞ、もう少しだけ勝たせてくれよという気持ちで、ファイナルセットまで1ポイントずつやってきた。(逆境を)はねのけられたのは運がよかったところもあったし、経験値もあった。これから何度も彼とやっていくと思うし、どんどん厳しくなっていくのは覚悟している。どこまで抗えるか、自分自身、楽しみ」
この勝利で国枝は、ITF(国際テニス連盟)公認大会での対日本人選手戦での無敗記録を16年間で87にまで伸ばした。
レジェンドをあと2ポイントまで追い詰めた小田の健闘も光った。第2セットは0-2から6連続でゲームを奪い、ファイナルセットも攻めの姿勢を貫いた。1-5の逆境では「ボールを打つことだけに集中し、ゾーンに入った」と振り返り、持ち味のパワーショットや武器のサーブで5ゲームを連続奪取して逆転した。
だが、6-5とリードした時点でゾーンから抜けてしまったという。「ビビった」という。タイブレークの末に大金星を逃した後はベンチでタオルをかぶり、しばらく動けなかった。準優勝スピーチでは途中、涙で言葉を詰まらせるも、最後は力強く宣言した。
「僕がテニスを始めたのは国枝選手が一番大きな理由。7年経った今、こうして同じコートで対戦相手として戦えて本当にうれしい。この涙は悔しいわけじゃない。大勢の(観客の)皆さんのおかげで、追い込まれた場面から追いついてリードできた。うれしくて勝手に涙が出てきた。また来年、この舞台に、さらに強くなって戻ってくることをここに誓います」
小田はサッカー少年だった9歳のときに、左股関節に骨肉腫を発症した影響で左脚が不自由になった。失意の彼に再び夢を与えたのが国枝だ。12年ロンドンパラリンピックで金メダルを獲得した国枝の動画を見て憧れ、車いすテニスを始めた。以来、懸命なトレーニングに挑み、競技用車いすも障がいを考慮して足置きの形を工夫しラケット操作を向上させるなど、さまざまな努力を重ね、実力を蓄えた。
パワーショットやサーブを武器に、21年には史上最年少となる14歳11カ月でジュニア世界ランク1位にまで登りつめた。シニアデビューし、今年4月にはプロ転向を果たすと、5月には全仏オープン初出場ながらベスト4に。9月の全米オープンでは準々決勝で敗れたが、着実に経験と実力、そして自信を積み重ねた。
今大会は「国枝選手が出ると聞いたので出場を即決」したと言い、対戦をイメージしながら調整してきたという決勝戦は、「夢の試合で、夢の場所で、夢の対戦相手だった」と喜んだ。「初めてゾーンを経験して新たな自分を発見し、素直に自分の成長を感じた」と手ごたえを口にした。
だが、「最後の最後で力尽きてしまう部分がある」と課題も挙げ、「リードしてから再度ギアを上げること」や「試合中に自分のテニスを変えること」を磨き、「プレーの選択肢をもっと増やしたい」と前を見据えた。ネットの向こうで試行錯誤しながら戦う国枝のプレーに教えられたという。
レジェンドは、「これから、車いすテニス界は彼を中心に回っていくと思う」と、後継者の登場に目を細めた。
テニスの聖地を舞台にしたレジェンドとホープのこの名勝負は、車いすテニスでは異例の1万人に迫る観衆が見届けた。
国枝は2013年に東京パラリンピックの開催が決まって以降、「満員の観客の前で金メダルを獲りたい」と語ってきたが、昨夏は無観客の中での栄冠だったことから「今日は(決勝を)センターコートに組んでいただき、もう一つの夢がかなった。入場しただけで、勝ち負けに関係なく幸せな気持ちだった」と感慨深げに振り返った。そもそも、2019年にATPツアーである楽天オープンに車いすテニス部門の導入が実現したのは国枝による働きかけも大きかった。大勢のテニスファンの前で車いすテニスを披露でき、認知を広げる機会になるからだ。
「大きなステップ。世界中の車いすテニスのトップ選手はこれ(同時開催)を望んでいる。いいプレッシャーになるというか、いいプレーを見せたいという気持ちにつながる。一人でも多くの方に目にしてもらえれば」と、第一人者として競技普及への強い思いがある。
3年ぶりとなった今大会に向けても、「クオリティーの高いものを見せたい」と世界のトップ選手たちに自ら声をかけ、数人から出場の承諾をもらっていたという。残念ながら、ビザの問題で来日できず、日本選手だけの出場となったが、例えば、国枝と小田による好プレーの応酬はテニスファンのため息やどよめきを何度も誘った。
小田は、「あんなに大勢の前での試合は初めてだし、そこで熱いプレーができたことに、すごく満足した。一競技として車いすテニスが成り立つのだと、ツアーを回るようになってから感じていたが、今日はそれを体現できたかな」と充実感をにじませた。国枝は「これからもこういった名勝負が生まれると思う。これからも車いすテニスに注目してください」と呼びかけた。
車いすテニスの歴史はこの日、たしかに動いた。
写真/吉村もと・ 文/星野恭子