1960年ローマ大会から世界最高峰のスポーツの祭典として歴史を紡いできた「パラリンピック」。来年には同一都市として世界で初めて2度目となる東京大会が開催される。そこで世界トップのパフォーマンスで魅了してきた名選手&名勝負にスポットを当て、パラリンピックの魅力に迫る。
夏冬ともに2度目で金メダルを獲得
パラリンピック競技で、日本人初の“夏・冬金メダル”の偉業を達成したのは、土田和歌子だ。1998年長野冬季大会ではアイススレッジスピードレースで、そして2004年アテネ夏季大会ではパラ陸上で世界の頂点に立った。
土田は、小学生の頃は地元のミニバスケットボールクラブの選手だったが、中学時代は特にスポーツはしていなかったという。再び本格的にスポーツに情熱を注ぐようになったのは、高校2年生の時に交通事故に遭い、車いす生活となった後のことだった。
入院中にリハビリの一環として、陸上や水泳、車いすバスケットボールなどをしていた土田は、退院をして高校に復学すると、陸上の大会にも出場するようになっていた。そうしたなかで知り合った障がい者スポーツセンターの指導員から紹介されたのがアイススレッジスピードレースだった。
ちょうどその頃、日本で初の冬季パラリンピックとなった長野大会(98年)の開催が決定し、アイススレッジスピードレースの指導者と選手の育成が行われていたのだ。すると、初めての講習会で滑った土田の姿にポテンシャルの高さを感じたコーチの声がけによって、その3カ月後には初めてのパラリンピックとなった94年リレハンメル大会に出場。土田が19歳の時だった。
そして“本番”として迎えた98年長野大会では才能が一気に開花した。特に長距離で強さを発揮し、1000m、1500mで二冠を達成。さらに100m、500mのスプリント勝負でも銀メダルを獲得した。
しかし長野大会後、アイススレッジスピードレースがパラリンピック競技から外れてしまう。それを機に陸上競技に転向。“氷上”で証明した長距離での強さを“陸上”でも遺憾なく発揮する。自身初の夏季パラリンピックとなった2000年シドニー大会ではマラソンで銅メダルを獲得すると、その年のホノルルマラソンで日本人初優勝。さらに翌01年の大分国際車いすマラソンでは、世界最高記録(当時)を樹立し、車いすマラソン界でその名を知らしめた。
そして04年アテネ大会、5000mで夏季では自身初の金メダルに続き、マラソンでも銀メダルを獲得。その後も国内では他を寄せ付けない圧倒的な強さを誇り、世界でもボストンマラソン5連覇という偉業を達成するなど、トップランナーとして君臨した。
しかし、パラリンピックでは不運が続き、08年北京、12年ロンドンと2大会連続でレース中にアクシデントに見舞われてメダルを逃した。41歳で迎えた16年リオ大会では、マラソン一本に絞って出場。海外勢と熾烈な金メダル争いを繰り広げたが、トップとわずか1秒差の4位に終わった。
東京パラへ大きく前進した大分での優勝
一児の母親でもある土田は、日本パラリンピック界ではママさんアスリートとしての先駆者でもある。アスリートとして、母として、その道を切り拓いてきた土田が、リオ後に一念発起し、新しく挑戦を始めたのがパラトライアスロンだ。17、18年と世界パラトライアスロンシリーズ横浜大会を連覇。18年は世界選手権で銀メダルを獲得した。そして19年にマラソンとの二刀流で東京パラリンピック出場を目指すことを決意した。
ランナーとして健在ぶりをアピールしたのが、先日の11月15日に開催された大分車いすマラソン。現在女子マラソン日本記録保持者でもある30歳の喜納翼を途中で突き放し、1分30秒以上の差をつけて優勝した。
「今大会のテーマ通り、“希望のはじまり”となった」と土田。東京パラリンピックマラソン参加資格ランキングは15位から一気に7位に上がり(11月15日現在)、切符獲得に大きく前進したかたちだ。
東京都出身でもある土田にとって東京パラリンピックに対しての思い入れは強く、パラトライアスロンとの“二刀流”で狙うことを宣言している。特に過去4大会で逃したパラリンピックでのマラソン金メダルへの挑戦は注目だ。
3年間のブランクがあり、土田自身も「42.195kmという距離は、生半可で走れるものではない」と覚悟している。それでも、誰よりも負けず嫌いの彼女のことだ。きっと、最高のレースを見せてくれるに違いない。
Photos:Takao Ochi[KANPARA PRESS] Composition&Text:Hisako Saito