1960年ローマ大会から世界最高峰のスポーツの祭典として歴史を紡いできた「パラリンピック」。来年には同一都市として世界で初めて2度目となる東京大会が開催される。そこで世界トップのパフォーマンスで魅了してきた名選手&名勝負にスポットを当て、パラリンピックの魅力に迫る。
パラリンピック初出場で獲得した金メダル
パラリンピックの花形競技の一つ、車いすバスケットボール界で歴代No.1のスーパースターといえば、パトリック・アンダーソンだろう。パラリンピックで母国カナダに3つの金メダルもたらした彼は、名実ともに“車いすバスケ界のマイケル・ジョーダン”と称されている。
子どもの頃、アイスホッケーなどスポーツが好きだったアンダーソンだが、9歳のときに交通事故に遭い、両脚の切断手術を受けた。その翌年、車いすバスケットボールに出合った。
カナダ代表となったのは1997年、17歳の時。すぐに頭角を現し、その年のジュニア世界選手権ではMVPを獲得した。翌98年にはA代表の世界選手権に出場して銅メダルを獲得。さらに同年からは車いすバスケの名門イリノイ大学で、名将マイク・フログリーの指導を受けて技術を磨き、卒業後はオーストラリアやドイツのリーグでもプレーした。
パラリンピックでは21歳で初出場した2000年シドニー大会での金メダル獲得を皮切りに、04年アテネ大会で連覇を達成すると、08年北京大会で銀、12年ロンドン大会では3つ目の金メダルに輝いた。
スピード、高さ、チェアスキル、シュート力とすべてを兼ね備え、トリッキーなプレーで相手を翻弄するなど“魅せるテクニック”を持つアンダーソン。“史上最高のプレーヤー”と称されている彼だが、「本当にすごいのは彼の方だよ」とリスペクトしている存在がいる。世界を代表するセンタープレーヤーとして活躍した当時チームメイトのジョーイ・ジョンソンだ。
「求められたプレーをきっちりと遂行するジョーイと一緒にプレーできたからこそ、自分はスキルアップできた。彼があっての自分だったことは間違いない」と語っている。
2度目の代表復帰で目指す東京パラリンピック
アンダーソンはバスケットボール選手である傍ら、ミュージシャンとしての顔も持つ。妻のアンナと一緒に「The Lay Awakes」というバンドを組んでいる。
実は08年北京大会後には、音楽活動に専念したいとカナダでの代表活動に終止符を打ち、ニューヨークに移住した。世界選手権、パラリンピックとすべてのタイトルを取り、達成感を味わっていた車いすバスケ以上に、当時は音楽の世界に興味が強くなっていたという。そして、後にこう本音を吐露している。
「世界トップを走り続け、プレッシャーを感じながらプレーすることに疲れていた。でも、音楽の世界では自分は“一般人”になれる。だから北京での銀メダルをプレッシャーから逃れる“言い訳”にしたところもあったと思う」
しかしその後、世界が“パラリンピック・ムーブメント”に沸いている様子に刺激を受け、11年に代表復帰。12年ロンドン大会で3つ目の金メダルを獲得した。ロンドン後に再び第一線から退いたが、17年には代表に復帰した。前年のリオパラリンピックで12チーム中11位という結果に終わった母国を放っておくことはできなかったのだ。
現在、男子カナダ代表は依然として厳しいチーム状況が続いている。すでにジョーイ・ジョンソンは現役を引退しており、さらに昨年までキャプテンを務め、チームの大黒柱だったデイビッド・エングは東京パラリンピックには出場することが不可能となった。今年実施されたクラス分け(障がいの程度や運動機能によって選手に振り分けられている持ち点)の再評価により、彼の障がいはパラリンピック出場の資格を満たしていないと判定されたのだ。
カナダの運命は、よりパトリックの肩にかかっている状況だ。それでも40歳を過ぎた今も「さらに技術力が上がってきている」と言い、「金メダルを絶対に求められていた以前とは違って、今は自由な雰囲気の中でいろいろとトライできることが楽しい」と語る。
2大会ぶりにカムバックする来年の東京パラリンピックでは、車いすバスケの魅力をたっぷりと披露してくれるに違いない。
Photos:Takao Ochi[KANPARA PRESS] Composition&Text:Hisako Saito