アスリートが表舞台で見せるパフォーマンスの背景にあるのは、“日常”の積み重ねだ。本番での輝きは一瞬に過ぎない。その一瞬を追い求めて、アスリートたちは長い年月をかけ、ときには葛藤しながら“挑戦”と“成長”の日々を送っている。その一人、世界で唯一の2m台を跳ぶ義足ハイジャンパー鈴木徹の東京パラリンピックまでの軌跡をたどる。
断続的なケガに苦しんだ3カ月間
東京パラリンピックまで、残り約1カ月となった。刻一刻と迫る本番に向けて、今回で6大会連続出場となる鈴木は、昨年にスタートした新たな挑戦を続けている。しかし、今年に入ってケガなど次々と困難が襲い掛かり、なかなか思うようなジャンプができずに苦しんできた。それでもその時その時に、やれることをコツコツと地道に続けてきた結果、ここにきてようやく一筋の光が見え始めている。長いトンネルから抜け出し、いよいよ本番に向けて加速し始めた鈴木の2021年上半期を振り返る。
昨年末の沖縄合宿で、目指す跳躍に近付き始めていた鈴木。当時重点的に取り組んでいた振り上げ脚と踏み切り脚の一連の動作について大きな手応えを感じていた。ところが、次のステップへと踏み出そうとした矢先の1月末、右脚の切断した断端部分に傷ができ、一時トレーニングを中断。1週間後に練習を再開したが、2月末に再び傷ができてしまった。しかも、いつもとは違う初めての部分に傷ができ、治るのには予想以上に時間を要した。
3月中旬には練習を再開したものの、思うような練習が積めていなかったことから、鈴木は3月20日の日本パラ陸上選手権を欠場した。すると、その翌週にまたも傷ができてしまう。これほど短期間に傷ができるのは、陸上人生の中で初めてのことだった。
「最初1月にできた傷は、いつもと同じ擦り傷のような表面的なものだったので、1週間も経てば治ったんです。ところが2月以降の傷は、深いところまで傷があって表面上は良くなったと思っても、まだ中に硬い芯みたいなものがあって、そこが義足を履いた時の摩擦でさらに悪化してしまいました。しかも、いつもとは違う部位で膝を曲げると義足のソケットが当たってしまう場所だったので、完治するまでの1カ月ほどは義足を履くことができず、松葉杖での生活でした。おそらく、新しい動きにチャレンジしていることでこれまでと違った刺激が傷を生んでいたのだと思います」
3月はほとんど練習をすることができなかった鈴木だが、4月に入りようやくトレーニングを開始した。だが4月14日、久々に一人で跳躍練習をした際には、あまりいい感触は得られなかったという。その2日後の16日には、師事する福間博樹コーチの指導を受けたが、1m75をやっとの思いでクリアするほどの高さでしか跳ぶことができなかった。当時は踏み切り部分の技術を重視していたため、助走距離を通常の2分の1ほどにした短助走での跳躍だったとはいえ、ふだんならクリアする1m80に到底届かない高さに苦戦した。松葉杖生活で1カ月ほどトレーニングがストップしたことで、脚の筋力が低下したことが要因だったと考えられた。
ジャパンパラで見えた成長の跡
その約1週間後の24日、鈴木はジャパンパラ陸上競技大会に出場した。やはり調子はあまり良くはなかったというが、目指すものに近付きつつあることを感じさせた跳躍があった。1m75、1m80、1m85を立て続けに1本目で成功させた後の、1m90の2本目だ。踏み切った時にはすでに振り上げ脚は高い位置にあり、さらに踏み切った直後の体がこれまでのようにすぐにバーの方へ倒れることなく、鉛直に上空へと上がっていたのだ。その後のクリアランス(空中姿勢)に課題が残っていたため、クリアすることはできなかったが、鈴木の跳躍が確実に前進していることを証明するには十分な1本だった。
鈴木自身も思わぬ跳躍に、驚きを隠せなかったようだ。
「1週間ほど調整して臨んだので“こんな調子で、試合でどういう跳躍ができるのかな”と自分を試す意味でも楽しみではあったんです。クリアランスの部分は置いておいて、とにかく沖縄合宿で手応えをつかんだようにしっかりと踏み切りができればと思っていました。そしたら見違えるような跳躍ができてビックリしました(笑)。やっぱり試合になると変わるものだなぁと。もともと練習でできなかったことが、いざ本番になるとできることが多いタイプなんですけどね。1m90はクリアできませんでしたが、可能性を感じる跳躍ができました」
実は、1m90の2本目では新たにもう一つ手応えをつかんだことがあった。それは、踏み切り脚のヒザの角度。これまでは踏み切り脚が接地した後にヒザの角度が地面に対して垂直になるまで曲がっていたが、この時の跳躍は体の後傾と同じ角度でとどまっていた。ここでのポイントを、鈴木はこう説明する。
「踏み切り脚を地面についた時に、体が後傾のまましっかりと踏み込めているということは、それだけ体が重力に負けていないということなんです。今までは助走で走ってきた勢いに耐えられず、踏み切りの際に良い意味でのブロックができておらず体が前のめりになって、ヒザが地面に対してほぼ垂直の状態で踏み切っていた。そうすると、重力に押されたまま体が前に倒れながら跳ぶことになるので、十分に高さを生み出すことができませんでした。でも体が後傾のまま踏み切れれば、前に倒れることなく、そのまま体を上空へ引き上げていくことができる。これをできるようになっていることが分かったのは、大きかったですね」
重力に負けることなく後傾姿勢を維持した状態で踏み切りに入ることができるようになったのは、ウエイトトレーニングでの筋力アップによって体のベースができてきたことに加えて、昨年から繰り返し練習してきた振り上げ脚の力強さが要因している。地道な作業から生まれた大きな成果だった。
こうして下半身の動きに大きな自信をつかんだ鈴木は、次のステップに進んだ。取り組み始めたのは、踏み切る瞬間の上半身。これまでは踏み切った後、上半身は重力に身を委ねたままで脚の力だけで上空に上がっていた。それを踏み切る瞬間に後傾している上半身を一度股関節の真上に乗せるようにして自ら起こし、体全体を一本の軸にする。この動作が入ることによって、より踏み切りのスピードが増し、ロスなく鉛直に体を引き上げることができるのだ。
東京パラでのメダル獲得へ、本格始動
ジャパンパラ後、鈴木はこの上半身の動きやその次のクリアランスの部分に着手し始めた。一方、助走もまだ完璧ではなかった。短助走ではできていたことが、距離を大きくとっての全助走でも同じようにできるかが課題となっていたからだ。その助走の距離一つが、一歩間違えれば跳躍自体を狂わせてしまうほど重要であり、マスターするのに困難を極めることが如実に表れたのが、6月26日に行われた記録会だった。
この日、鈴木は体のコンディションの良さを感じていた。1週間前の練習でも1m85をクリアしていたこともあり、“この分なら1m95はクリアできる”とにらんでいた。ところが、1m80、1m85は1回目でクリアしものの、1m90は3回目も失敗に終わった。要因は、助走にあった。全助走にしたことによってスピードが上がり、最後にコーナーをまわって踏み切りに入る際の最も重要な部分での助走の足が合わなかったのだ。そのため、本来は一歩一歩、しっかりと地面を押すことによって、踏み切りで体を引き上げるパワーを生み出すはずが、ピッチ走法のように脚の回転が速くなり、一歩一歩が軽くなってしまったのだ。
「実は1週間前にある動画を見て、自分で“こうした方がいいんじゃないかな”ということを試し始めたんです。でも結果的にそれは、ちょっと方向性が違っていたなと。試行錯誤している段階なので、こういうことがいろいろと起きるのですが…。早く脚を前へ前へという意識が強すぎてオーバーピッチになり、特にコーナーではチョコチョコとなってしまいました。体の状態が良かっただけに、とても残念でした」
しかし、鈴木は落胆することよりも次に進むことを優先した。試合後、すぐに福間コーチと話し合いながら、修正する姿があったのだ。全助走で跳んだ試合は、この日が初めて。それは東京パラリンピックへ、いよいよ本格始動したということでもある。そして課題が浮き彫りとなったことで、鈴木は進む方向をつかんだともいえる。
実はこの試合でも、着実に成長の跡は見て取れる跳躍があった。1m90の1本目だ。助走が合わなかったにもかかわらず、踏み切った直後に一度グンッと体が上空に引き上げられ、しっかりと高さを生み出していたのだ。これについて、鈴木も「それだけ体の状態が上がってきているのだと思う」と手応えを口にした。
5月に41歳となった鈴木。まだ体の限界を感じてはいないが、それでもやはり若い時のように力技でなんとかするというような荒業はもう通用しない。助走、踏み切り、クリアランスのどこかに少しでもズレが生じれば、跳躍自体が崩れてしまう。だからこそ、しっかりとした理論の元での正確な技術が必要とされる。
1カ月後の本番で最高のパフォーマンスをするために、鈴木は今、“針の穴に糸を通すような”作業を続けている。
【プロフィール】
すずき とおる●SMBC日興証券所属
1980年5月4日生まれ、山梨県出身。中学からハンドボールを始め、高校時代には国体で3位入賞した実績を持つ。高校卒業直前に交通事故で右脚を切断。99年から走り高跳びを始め、翌2000年には日本人初の義足ジャンパーとしてシドニーパラリンピックに出場。以降、パラリンピックには5大会連続で出場し、12年ロンドン、16年リオと4位入賞。17年世界選手権では銅メダルを獲得した。06年に初めて2mの大台を突破し、16年には2m02と自己ベストを更新。東京パラリンピックでは初のメダル獲得を狙う。
写真/越智貴雄[カンパラプレス] 取材・文/斎藤寿子