「サントリーチャレンジド・スポーツ プロジェクト」を掲げ、多彩なパラスポーツとパラアスリート支援に力を注ぐ「サントリー」と、集英社のパラスポーツ応援メディア「パラスポ+!」。両者がタッグを組み、今最も注目すべきパラアスリートやパラスポーツに関わる仕事に情熱的に携わる人々にフォーカスする連載「OUR PASSION」。東京パラリンピックによってもたらされたムーブメントを絶やさず、さらに発展させるべく、3年目のチャレンジに挑む!
下肢を切断したパラアスリートにとって欠かすことのできない「スポーツ義足」。その開発と進化に多大な貢献をしてきた義肢装具士の臼井二美男さん。日本のパラスポーツ黎明期から、類まれな感性と情熱でスポーツ義足作り、そしてパラスポーツの普及活動にキャリアを捧げてきた臼井氏に、あらためてあくなき挑戦の原動力になっている思いを聞いた。
──まずは臼井さんが技師装具士を志した経緯からおうかがいします。ご自身としても思わぬきっかけでその道に入られたとお聞きしました。
そうなんですよ。私は地元(群馬県前橋市)の高校を卒業して上京し、大学に入ったものの学校にはあまり行かずに3年目にドロップアウトしてしまいます。その後はずっとアルバイト。いろいろとやりましたね。しかし26〜7歳にもなってくるとさすがに定職に就かないとまずいなと思い、大塚の職業安定所に行ったのですが、その帰りにたまたま通りかかった職業訓練校で「義肢科」という字を目にしたんです。その時でしたね、「そういえば小学校の頃の担任の先生が義足だったな」と思い出しまして。彼女は当時23歳くらいだったと思いますが、あるときに長いお休みから脚を引きずるような感じで戻って来られたんです。後から知ったのですが骨肉腫による左脚の大腿切断でした。その先生のことを思い出して義足を作る仕事に飛び込んでみようと。そして職業訓練校の中に入ってみたら責任者の先生がいらっしゃって、補助金が出て月々の生活はなんとかなるからぜひ入りなさいと。
── まさに生涯をともにする仕事との運命的な出会いとなったわけですね。
自分の中できらっとひらめくものがあったんでしょうね。職業訓練校の前でこの世界に飛び込んでみようかなと思ったときから僕の義肢装具士としての人生が始まりました。ただ、職業訓練校には結局入らなかったんですよ。なぜなら学校に入る前に現場を見てみようと思い、うち(義肢装具サポートセンター)の前身だった施設に電話をして見学させてもらったところ、「欠員が出て困っているから見習いで働かないか」という話になりまして。それで施設からも学校に断りの連絡をしてもらってその年の春から見習いで働き始めたんです。そして半年後の10月に見習いから正社員となり、入社6年目に前年に新設された「義肢装具士法」の国家資格を取りました。入社が1984年ですので、もう今年で38年目。あっという間でしたね。
──「義肢装具士」として、それほど長きにわたって情熱を持ち続けながら仕事を続けてこられた秘訣とは?
どんな仕事でもそうだと思いますが、とにかく仕事のコツはわからないことがあれば「聞く」こと。それに患者さん一人一人との信頼関係も大事ですね。義肢装具士も接客業なんですよ。若い人から年配の方まで、また中には精神面に不安を抱える人や複雑な境遇で生きている人もいたり、いろんな患者さんがいらっしゃいますから。その点で私の場合は、生まれも育ちも農家だったため子供の頃から農作業を手伝っていましたし、また20代の頃にありとあらゆるアルバイトをやってきた経験も生きたところはあります。それでも義肢装具士としてある程度きちんと仕事ができるまでに入社から10年はかかりましたよ。
──臼井さんが、生活義足だけでなく「スポーツ義足」にも目を向けることになったきっかけはハワイへの新婚旅行だったそうですね。
そうなんですよ。入社して5年経った頃にハネムーンでハワイに行ったのですが、その際に、「せっかく来たんだから現地の義足作りを見てみたい」と思いまして。パールハーバーに海軍病院があることを知っていたので、きっと義足を作っている施設もあるはずだと。それで電話帳で調べてみると3社ほどあったので、電話をかけてカタコトの英語で「私は日本の『テクニシャン』で今ハネムーンできてるんだけど見学していいですか?」と。今思うと若かったこともあって度胸が座っていましたね(笑)。それで1社、ホノルルにある従業員7〜8人の小さな製作所が工場に招き入れてくれて。そこでカーボン素材で初めて作ったというアヒルの足のような「板バネ」を見せてもらいました。「これを使えば義足で走ったり飛んだりできるんじゃないか」と思い、帰国後、当時はアメリカにしかなかったものだったのですが会社に頼んで研究費で一足買ってもらったんです。翌年には大腿切断の人用のものも揃えました。
──そこから本格的なスポーツ義足の実用化に向けて、どのような取り組みからスタートされたのでしょうか?
まずは興味のありそうな若い子たちにアメリカのアスリートが義足で走っているビデオをダビングして見せて、「アメリカではこんな感じで走っているよ」と伝えつつ、見よう見まねでカーボンの義足で走る練習をしてみたんです。するとね、最初は24歳の女の子、次に男の子と、立て続けにポンポンポンと走れちゃったんですよ。その子たちはもう一度走れたことに涙を流して喜んでくれてね。その姿を見て、本格的にスポーツ義足を作っていこう、そしてここで「ランニングクラブを作ろう」と思ったんですよ。
──鈴木徹選手(パラ陸上・走り高跳び)や谷真海選手(パラトライアスロン)ら、たくさんのアスリートが臼井さんの切断者陸上クラブ「ヘルス・エンジェルス」に参加したことを機にパラアスリートの扉を開いたそうですね。
「ヘルス・エンジェルス」は1991年から始めました。当時は海外の専門誌などでパラリンピックで義足の選手が走っている写真などを目にすることはありましたが、うちの施設で担当していた2000人ほどの義足の人たちの中でスポーツを本格的にやっている人はゼロでした。それこそ鈴木徹くんが2000年のシドニー大会に出るまでは義足でパラリンピックに出た日本人選手は誰もいなかったですし、女子選手では2004年アテネ大会に真海ちゃん(※当時は旧姓の佐藤真海)が走幅跳で出たのが初めて。彼らが活躍する姿を見て「自分たちもやりたい」っていう選手がだんだん出てきて、それが積み重なっていって現在にいたっている感じですね。
──陸上クラブはその後「スタートラインTokyo」に名称を変え、臼井さんご自身もずっと練習に参加され続けているそうですね。
「不良っぽくてもいいからチャレンジしてみよう」という思いを込めて、アメリカのバイカー集団の名前をもじって「ヘルス・エンジェルス」という名前で活動していたのですが、6年前に今の「スタートラインTokyo」に変えました。ひとつ自慢できるとしたら、1991年に創設して以来、私自身が月一度の練習を休んだことがないことですかね。うれしいことに最近はメンバーがさらに増えていて、「パラリンピアン育成」とうたっていないこともあって6歳の子供から上は76歳まで本当に幅広い世代の人たちが参加してくれています。200人くらいのメンバーとLINEグループで繋がりながら、練習だけでなくいろんな情報を共有していますよ。近年は月一回の全体練習会に加えて毎週水曜日にZ会というのもやっています。
障がいのある人というのは、普通に生活しているだけではやはり運動不足になりがち。でも運動しているとね、必然と自信や仕事への意欲が湧いてくる。そして本人も家族も周りの人も笑顔になる。何よりスポーツをやると免疫力が間違いなく上がりますから。ちなみに真海ちゃんは築地にある国立がんセンターからうちにやってきた第一号なんですよ。彼女は自分で探して私を訪ねてきたましたが、彼女をきっかけに、がんセンターの患者さんがうちでリハビリすることがすごく増えているんですよ。
──臼井さんは練習生たちの国内大会のみならず2004年から2016年までパラリンピック本大会にもメカニックとして帯同されるなど、本業の義足製作以外にも多岐にわたって精力的に活動をされてきました。
そうですね。さきほどクラブの練習を欠席したことがないとお話しましたが、実は会社も体調のことで休んだことが38年間一度もありません。だから仕事と並行して年12回のランニングクラブの練習、ジャパンパラや各地方の選手権大会への帯同をしていたので以前は家できちんと過ごす日が年に2〜3日くらいしかなかったんです。それでもつらいと思ったことはないですね。2回ほど帰り道の駅で貧血で倒れちゃったことはありますけど(笑)、次の日には普通に会社に行っていましたし、身体が健康で何よりですね。
──責任感や義務感だけではなかなかできないことだと思いますが、何が臼井さんの情熱をかき立てる原動力になっているのでしょうか。
ベースとしては、やはり責任感がいちばんですね。例えば来週のいついつまでに義足を仕上げると言ったら当たり前ですけどそこまでに必ず仕上げないと、待っている人は生活そのものに困るわけですから。また7年ほど前から、会社の事業として選手への練習場の貸し出しや、日本選手権への参加旅費を2名分出すなど限定的ではありますが費用のサポートも始めました。なぜなら生活用義足はほとんどの人が市役所や区役所の福祉課などで作ってもらえるのですが、スポーツ義足は自己負担。だから東京大会が決まるだいぶ前から行政が支援してくれるようになればいいといろんな働き掛けをしてきましたけどなかなか実現しなくて、若い選手たちが競技を続けるのはなかなか難しい現実があったからです。そういった課題を少しずつでも良くしたいという思いも強かったですね。
──昨夏の東京大会をどうご覧になりましたか? またパラスポーツを取り巻く環境の変化などは感じられましたでしょうか?
うちで義肢を作っている選手は17人いましたが、今回はメカニックとして帯同する必要がありませんでしたからテレビで応援していました。東京大会全体を見ていていちばん印象的だったのは、企業に所属しているパラアスリートがすごく増えたなあと。また選手たちはみんなニコニコしながらインタビューに答えていましたし、悲痛な顔を見せることなくハツラツとしていました。好きで競技をやっていて、それをみんなに見てもらいたいという気持ちが強く表れていましたね。この10年くらいで、ずいぶん環境も選手の考え方もメディアの姿勢も変わったなあと感心しました。実はうちの施設にもね、最近はスポーツをやっていなくても義足むき出しで短パンはいてやってくる人も出てきた。そうやって「義足がかっこいい」という考え方が生まれてきたことは非常に良い傾向だなと思っています。
──義足作り、そしてパラスポーツが心底好きだという気持ちが伝わってきます。
本当にね、好きなようにさせてもらっていると思いますよ。25年くらいまともに家の布団で寝ていないくらい、とにかく忙しい義肢装具士人生でしたから妻にも感謝したいですね。それもこれも、義足を作りあげる面白さと、義足を使う人たちとの“繋がりの精神性”のようなものに私自身が魅了されているから続けてられているんでしょうね。
──最後に今後の展望について。臼井さんはいつまで最前線で義足作りを続けようと考えていますか?
正直、いつまでというのは考えたことがないです。63歳で一度退職していて今は属託でやっているのですが、会社からは「いたいだけいてください」と(笑)。だから自分の中では区切りがないんですよね。よく「70歳になってもやるの?」って聞かれますけど、自分としては20代や30代の頃と比べて感性が衰えている気はまったくしないので。最近はね、スポーツが苦手な人たちはファッションショーやeスポーツといったように違う形で繋がってみようとか、写真家の越智貴雄さんと一緒に「切断ヴィーナス」というプロジェクトをやって写真集を出したりとか、より幅広くいろんな活動を楽しんでいます。それこそ障がいのある人たちが集まって箱根の由緒ある温泉旅館に行って、みんなでおんぶしたり車いすを担いだりしながら温泉に入ったりね。私はバリアフリーという言葉がそれほど好きではないんです。だから陸上の練習会でも転ぶ練習や起き上がる練習を必ずするんですよ。だって障がいがあったとしても基本的には「助け合い」の精神があれば大抵のことはできるんですよ。自分から「手伝いましょうか」、あるいは「手伝ってもらえますか」と、誰もが自然に言えるような社会になっていけばいいなと思いますね。
PROFILE
うすい ふみお●1955年生まれ、群馬県前橋市出身。大学中退後、8年間のフリーター生活を経て財団法人鉄道弘済会・東京身体障害者福祉センター(現・公益財団法人鉄道弘済会・義肢装具サポートセンター)に就職し、義肢装具士としてキャリアをスタート。89年から生活義足に加えてスポーツ義足の制作にも取り組み、91年には切断障がい者の陸上クラブ「ヘルズ・エンジェルス」(現・スタートラインTokyo)を創設。これまで数々の日本記録保持者やトップパラアスリートを輩出し、また2004年アテネ大会から2016年リオ大会まで日本代表選手のメカニックとしてオリンピック本大会にも帯同。
SUNTORY CHALLENGED SPORTS PROJECT
サントリー チャレンジド・スポーツ プロジェクト
www.suntory.co.jp/culture-sports/challengedsports/
写真:臼井二美男さん提供 Composition&Text:Kai Tokuhara