この先、さらなる進化が楽しみな新エースが北京パラリンピックで誕生した。
2度目のパラリンピックで見事、金メダルを獲得した川除大輝
大会第4日目の3月7日、国家バイアスロンセンターで行なわれたクロスカントリースキー男子20kmクラシカル立位で、川除大輝(日立ソリューションズJSC)は自身初となる金メダルを獲得した。開会式で日本選手団の旗手も務めた21歳の川除は、2018年平昌大会に続く2度目のパラリンピックで、冬季大会の日本男子金メダリストの最年少記録も塗り替える快挙だった。
クロスカントリースキーは起伏のある雪原のコースで競う「雪上のマラソン」とも呼ばれる過酷な競技だ。フィニッシュ後に倒れ込み、肩を大きく揺らし激しい呼吸を繰り返す選手も少なくない。
だが、この日の川除は軽快なピッチを刻み、レース序盤からトップに立つと、1周5kmのコースを4周する間に後続との差をどんどん広げる快走を見せた。最後は52分52秒8でフィニッシュし、2位に入った中国選手に1分30秒以上の大差をつける圧巻の走りだった。
「課題だった後半の失速が改善できていたかなと思う。また、今回は上りを意識してレースをしていたので、両手ポール(使い)の選手にも食らいついて行けた。そういうところが他の選手とのタイム差が広がったポイントだと思います」
2001年富山市に生まれ、先天的に両手足の指の一部が欠損している川除はポール(ストック)は持たず、両腕を大きく振ることで推進力を補う。上半身と下半身を連動させ、スキー板をしっかり踏むことで雪面に力を加え、スキーを滑らせる。
身長161cmの川除は外国選手に比べると小柄だが、優れた敏捷性と運動能力でリズミカルなピッチ走法とダイナミックな上半身の動きによる伸びやかなスキーイングが持ち味だ。巧みなスキー操作で上り坂を軽快に登れるのも、大きな強みだ。
2回目の大舞台で一気に世界の頂点へと上り詰め、「4年前と比べて、自分が成長したんだなとすごく感じています」と自信をにじませた。
7日夜に行なわれた表彰式でも、ズシリと重い金メダルを首にかけ、センターポールを上がっていく日の丸を見上げながら、川除は4年前のある一場面を思い出していたという。
「4年前」とは、高校2年だった2018年、日本選手団最年少17歳で初出場した平昌大会のことだ。精一杯の走りを見せたが、出場した個人3種目は9位2つと10位と惜しくも入賞を逃し、4人(男女混合・障害別)で組むミックスリレーはアンカーとして出場したものの、4位に終わり、あと一歩メダルに届かなかった。初めてのパラリンピックは海外の強豪選手と競い合い、走力や筋力不足を痛感する、悔しいデビュー戦となった。
一方、川除にとってあこがれの先輩であり、当時、6大会連続パラリンピアンで37歳だった新田佳浩(日立ソリューションズ)は男子10kmクラシカル立位で自身通算3個目のパラリンピック金メダルを獲得。表彰台の真ん中に立つ先輩の姿を見守った川除は、「4年後(の北京大会で)は自分が獲る」と強く心に誓った。
その誓いを見事に達成してみせたのが北京大会だったが、その陰にはさまざまな努力の積み重ねがあった。
生まれつき両手足の指の一部がない先天性両上肢機能障害がある川除が、クロスカントリースキーを始めたのは6歳の時だ。地域のスポーツクラブに入り、さまざまなスポーツに挑戦するなかで出会ったが、アルペンスキーと違って斜面を駆けのぼることもある競技は体力的には苦しいが、その分、結果が出たときの達成感は大きく、夢中になった。
小学校4年だった2010年春、縁あって、合宿中の新田を訪ねる機会に恵まれた。新田はちょうどバンクーバー大会で金メダル2個を獲得したばかりで、川除はこの時、金メダルを首にかけてもらい、その重みを体感した。また、当時はまだポールを使っていた川除だったが、ポールなしで滑るスタイルもあることをアドバイスしたのも新田だった。
世界への扉が開いたのは中学2年だった2015年2月、北海道旭川で日本初開催されたパラノルディックスキーのワールドカップだった。当時13歳の川除は新田のあと押しもあり、オープン参加がかなった。記録は公認されなかったが、世界の強豪選手たちと競り合う新田の姿を間近で見て大いに刺激を受けた。
「自分もどれだけ世界に通用するのか挑戦したい」
以来、パラスキーの世界へと挑戦を広げると、高校のスキー部で健常者と切磋琢磨し、パラ日本代表の強化指定選手にも選ばれ、代表合宿に参加するなど、ひとつずつ経験を重ね、実力は着実に伸びた。そして、高校2年生の2018年には平昌パラリンピックに初出場したが、悔しい結果に終わり、新田の背中を追い、より厳しいトレーニングに励んだ。
川除が平昌大会から帰国後、まず取り組んだのはフォームの改善だった。平昌大会でのレースで、海外選手の動画なども参考に、フォームの改良に取り組んだ。以前は、重心がうしろに下がり上体が起きてしまうフォームだったため、上り坂で疲れやすく効率の悪さを感じていた。そこで、上体を前傾させ上り坂と平行となるようなフォームに改良すると、疲労は減り、スキー板1本に乗る時間も増してスキーをより滑らせやすくなった。
努力の成果はすぐに表れた。2018年12月にはワールドカップで銀メダルに輝き、初の表彰台に乗る。2019年3月には世界選手権で20kmクラシカルを初制覇。新田に続き日本人2人目の快挙だった。
その後、名門の日本大学スキー部に入部し、さらなる強化を図っていたが、2年目の2020年春、コロナ禍で休校となり、富山県に帰省。強い意志でオンライン授業と自主練習を両立させた。海外遠征にはなかなか行けない分、基礎トレーニングに励み、下半身の徹底的な強化にも取り組んだ。
ポールを持たずに滑る練習も増やし、夏場のローラー(約50cmのスキーに似た板の前後に車輪がつき、道路でも走行可)練習もポールを使わないようにするなど実戦感覚を養った。さらに、キックが重要なので脚のバネをつけるトレーニングとして縄跳びやポールジャンプ、ジャンプスクワットなど自重によるフィジカルの強化メニューも増やした。国際大会の機会は限られていたが、チャンスをものにし、2021年7月には選考条件を満たし、北京大会の代表内定を決めた。
「平昌大会からの4年間は世界選手権優勝や大学入学後に結果を出せない時期など、いろいろな経験ができました。その経験を生かして、北京では100%の実力を出せるように頑張り、平昌大会よりもいい結果を残したいです」
そうして、自分への大きな期待をもって臨んだ北京大会で、念願の金メダルを手にした。背中をずっと追いかけてきた新田は、同じレースを集大成として走り、57分46秒7のタイムで7位だった。レジェンド、新田から若きエース、川除へと、後継者のバトンがたしかに託された。
川除は2日後の9日には、1.3kmのコースで競う男子スプリント・フリー立位にも出場した。タイムトライアルの予選で6位となり、ノックアウト方式の準決勝に進んだが、組4位に終わり、上位3人が進める決勝を逃した。最初の上りで海外選手にスキーを踏まれて転倒したことが響いたが、「自分の不注意。スプリントではよくあること」と切り替え、諦めることなく前を追った。
「(決勝を逃したのは)悔しいですが、今、持っている力は出しきれました。今までやってきたことは無駄ではなかったです」と前を向いた。最終順位は川除が7位、新田が8位だった。
「新田さんのようには(チームを)引っ張っていけないが、結果で引っ張り、支えてくれる皆さんに恩返しができたら」と話す川除はこのあと、12日に男子12.5kmフリーに出場予定で、13日にはミックスリレーが予定されている。「フリーは長い距離のレースで後半(の粘り)をしっかり生かせるレースをしたい。リレーはもし出場するなら、日本チームで挑む種目なので、しっかり貢献できるように頑張りたい」と意気込む。
憧れの先輩から受け継いだエースの称号だが、川除ならではのスタイルで、新たなエース像を見せてくれるに違いない。
*本記事はweb Sportivaの掲載記事バックナンバーを配信したものです。
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写真/吉村もと ・ 文/星野恭子