「やりきったなと、それが一番かな。今、持てる力は出したと思います」
右大腿義足の小須田潤太(オープンハウス)は、初めての冬季パラリンピックとなる北京大会をそう振り返った。スノーボードの日本代表6人のひとりであり、スノーボードクロスでLL1(重度下肢障害)7位入賞、バンクドスラロームでは10位だった。
どちらも難しい競技だか二刀流で極める道を選んだ小須田潤太
実は、昨夏の東京パラリンピックにも初出場し、陸上競技の100mでは予選敗退に終わったが、走り幅跳び(T63/片大腿義足など)では自己新の5m95をマークし、7位に入賞。大会の1年延期に伴い、東京パラのレース終了直後に冬競技に切り替えるというタイトな日程のなかでの「二刀流」だったが、それぞれ1種目で入賞を果たす健闘だった。
「冬は表彰台を目指してやってきたので、少し悔しい気持ちもあります。上位の選手たちと滑って、まだ自分の実力が足りていないと痛感。競技をやっている以上は常に高いところに目標をおき、毎日、全力を出し続けることが改めて大事だと感じました」
冷静に振り返った小須田だが、果敢な挑戦の裏には強い覚悟と果たしたい目標があった。
北京大会のスノーボード競技は、3月6日のスノーボードクロス種目の予選から始まった。バンクをはじめ、カーブやジャンプ台などがあるコースで競うレース種目だ。予選はひとりずつ滑るタイムトライアルで、結果に応じて翌日の決勝トーナメントの組み合わせが決まる。準々決勝からは4人が同時にスタートして着順を争い、上位2位までが次のラウンドに進むことができ、最終的な順位が決まる。
小須田は予選1本目を完走後、2本目は転倒による途中棄権だったが、1本目のタイムにより準々決勝進出を決めた。インタビューエリアに現れた小須田は顔の左側をはらした状態だった。聞けば、前日練習で転倒し、顔や肩を打ち、左足首をねん挫し、この日のレースは足首をテーピングで固め、痛み止めを服用しての出場だったという。それでも最終結果は7位入賞だった。
「痛みはあったが、サポートのおかげもあり、予選はそれなりに滑ることができた。及第点かな。正直、実力が全て出せたかというと、そうでもない」と悔しさをにじませた。
続いて、11日には、バンクドスラロームに出場した。「バンク」と呼ばれる傾斜があるコーナーを設けたコースを滑走する種目で、ひとりずつ2本を滑ってベストタイムで順位を競う。
小須田はバンクドスラロームについては陸上競技との兼ね合いもあり、ここ数年は試合出場がほとんどない状態での挑戦だった。1本目は完走したが、2本目は途中で転倒し、棄権。1本目のタイムで、最終順位は10位だった。
2本目の転倒は攻めた結果だったが、「バンクドを滑る技術すべてが足りていない」と課題を口にした。
夏冬二刀流の挑戦を終えた小須田は、「夏も冬もパラリンピックは4年に1回の特別で最高に楽しい舞台。4年間をかける価値がある、本当にいい大会だと改めて思いました」と振り返った。
小須田の人生が大きく変わったのは2012年の春だ。仕事中の交通事故により、右足を太腿から下で切断。リハビリを経て、義足での生活が始まった。
その後、2015年夏、義肢装具士や理学療法士らに薦められ、義足で初めて走る人を対象にした「ランニングクリニック」に参加した際、大きな出会いがあった。自身も左大腿義足のパラリンピックメダリストで、講師のひとりを務めていた山本篤だ。
小須田はこのとき、自分と同じ大腿義足なのに驚くほど機敏に動き、しかも世界で戦うトップアスリートの山本に大いに感化された。
「僕にも可能性があるかもしれない」
もちろん、すぐに山本のように走れたわけではなかったが、「もうできない」と思っていた走ることが、「義足をつければできる」ようになることに大きな喜びを感じた。
その後、山本のあと押しもあり、本格的に陸上競技を始めると、どんどん夢中になった。トップアスリートが隣で指導してくれるチャンスを小須田はしっかりとつかんだ。
2016年春からは国内大会にも出場。その夏、リオ大会で銀メダルを手にした山本の姿に、「2020年の東京大会には自分も出る」と誓った。覚悟を決めた小須田は競技と両立できる環境を整えるために転職し、就業後や週末に練習を重ねていく。
持ち前の運動能力で実力を伸ばしていったが、練習をはじめた当初は、義足と断端(切断部位)をつなぐ「ソケット」と呼ばれる部分の調整が難しく、断端に痛みがでるなど苦労した。筋量のアップに伴った体形の変化が著しく、ソケット部分を何度も作り直さねばならなかった。
義足の調整もようやく落ち着き、陸上でも100mや走り幅跳びの自己記録を伸ばしていた小須田が、スノーボードを始めたのは2017年末のことだ。きっかけは、やはり尊敬する山本が義足になる前から楽しんでいたというスノーボードで、2018年平昌パラ出場を目指すことを宣言したからだった。
「篤さんに置いていかれたくない」
小中学校時代にスノーボード経験があった小須田はすかさず、山本の背中を追いかけ、自分もスノーボードを始めた。陸上用とは異なる専用の義足も購入し、2018年2月には国内大会にも初出場。その後、目標を達成して平昌大会に出場し、「夏冬パラリンピアン」になった山本のあとを追い、小須田の「二刀流」もスタートした。
陸上で鍛えた運動センスもあり、スノーボードの日本代表強化選手にも選ばれ、2018年末頃から国際大会にも出場し始めた。
パラスノーボードではボードやブーツなどは健常者と同じものを使うが、義足の選手は自身の障がいや体形などに合わせた義足で滑る。いかにバランスよくボードに乗り、しっかり滑らせるには義足を使いこなし、体幹の強化などが必要だ。決して簡単ではないが、そんな挑戦も小須田には楽しかった。
とはいえ、あくまでも第一のターゲットは東京パラの出場だった。2019年4月、小須田は山本のいる大阪へと練習拠点を移した。職場の理解も得て大阪支社に異動し、仕事時間も調整してもらうよう交渉するなど競技生活に比重を置いた生活を整えていった。
そうして、記録も徐々に伸ばした小須田は厳しい選考条件をクリアし、2021年、念願の東京パラリンピック出場権をつかみ、走り幅跳びで7位入賞も果たした。
キャリアが浅く、急激に記録を伸ばした小須田はアジア選手権や世界選手権などの出場経験がなく、初めての日本代表戦がパラリンピックとなったが、大舞台で自己ベストを更新し、「ただ、楽しかった」と声を弾ませた。
東京パラで自身の出場種目を終えると、小須田はすぐに冬仕様に切り替え、スノーボードの海外遠征に出た。北京大会を見据え、これまで以上に集中して練習したおかげで、2021年12月のワールドカップ・スノーボードクロスでは第1戦で3位と初めて表彰台に上る。北京パラ直前の世界選手権バンクドスラロームでは惜しくも入賞を逃す9位だったが、精一杯の滑り込みと周囲のアドバイスを受け、小須田は北京大会に挑んだのだった。
パラスポーツを始める前は「無気力な人間で、毎日をただ生きているだけだった」と小須田は明かす。だが、足を失ってからパラスポーツと出会い、パラリンピックのような世界の舞台に立てるようになったことで、「何か目標をもって物事に取り組む大切さや、それが人間を成長させることに気づくことができた」と話す。
だからこそ、小須田は二刀流にも果敢に挑む。そのための切り替えは早い。今季のスノーボードは北京パラのバンクドスラロームのレースで一区切り。ねん挫の回復次第だが、帰国後は陸上練習をはじめ、来月には山本らと合宿を予定しているという。
競技人生の目標は「夏も冬も日本一」だ。冬から夏への移行のほうが時間がかかるため、陸上競技に掛ける割合が高いように見えるが、実は、「バランスだけの問題。どちらも本気でやっていきます」と意気込む。
「覚悟を持って、本気で物事に取り組むことは、脚がなくてもできること。自分の人生はまだ続くし、自分の幸せを追求するにも大事なこと」
本気の取り組みの先に、いったいどんな光景が広がるのか。小須田の挑戦から目が離せない。
*本記事はweb Sportivaの掲載記事バックナンバーを配信したものです。
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写真/吉村もと ・ 文/星野恭子