アスリートの「覚醒の時」――。
それはアスリート本人でも明確には認識できないものかもしれない。
ただ、その選手に注目し、取材してきた者だからこそ「この時、持っている才能が大きく花開いた」と言える試合や場面に遭遇することがある。
東京五輪、そしてパラリンピックでの活躍が期待されるアスリートたちにとって、そのタイミングは果たしていつだったのか……。筆者が思う「その時」を紹介していく――。
パラ陸上・ブラインドマラソンランナーの青木洋子(NTTクラルティ)にとって、自他ともに認める「覚醒」したレースは2020年2月2日に行なわれた別府大分毎日マラソンだ。
東京パラリンピック日本代表の推薦内定枠がかかった最後の一戦だった。昨年春、日本ブラインドマラソン協会が発表した選考基準により3枠のうち2つは別の大会ですでに他選手が手にしていた。別大では残りの1枠をライバル6選手で争った結果、青木がセカンドベストとなる3時間10分40秒で走り抜き、視覚障害女子の部で2位となって最後の切符をつかんだのだ。
「推薦内定を勝ち取るという目標を達成できたことが何よりもうれしいですが、もう一つ、終盤での失速という不安を乗り越えられたことも大きな収穫でした」
青木は大きなプレッシャーの中でスタートラインに立っていた。前年の別大で、快調だった前半から一転、後半に大きく失速して4位に終わった苦い経験が頭をよぎり、試合の1カ月以上も前から不安に襲われ、仕事は手につかず、家でもピリピリしていたと明かす。
レースはリオパラリンピック銀メダリストで、東京大会代表内定も決めている道下美里(三井住友海上)がスタートから別次元のペースで飛ばし、世界新記録(2時間54分22秒)を樹立して優勝したが、2位以下は混戦だった。スタート後しばらく、青木は3位につけていた。「切符」をつかむには道下に次ぐ2位が絶対条件だったので、早めに追いつくべきか、葛藤しつづけたが、「去年のように、また脚が持たなかったら……」という思いがつきまとった。
一方で、昨年12月の防府読売マラソンでは、3時間9分55秒の自己新を達成し、国内のブラインド女子の歴代記録で道下に次ぐ2番手にランクインしたことが自信にもなっていた。
「粘っていれば、最後はきっと勝てる」
後半を勝負どころと位置付けた32km付近で2位に上がると、そのままゴールまで駆け抜けた。2位を確信できたのは、「フィニッシュラインを越えたときでした」と振り返る。後続の追い上げが不安で、逆に最後まで気を緩めることなく集中できた。
フィニッシュ後、安堵の表情を見せながら、「みんなで勝ち取った結果です。これからも油断せずに、さらに高めていきたい」と意気込みを語った青木。
「みんな」とは、コーチや目の代わりとなる伴走者たちからなり、青木の競技活動を支えるグループ「チームおよ」のことだ。コーチはアテネパラリンピックの男子ブラインドマラソン4位入賞の福原良英で、練習メニュー作成や指導を担う。前向きに努力する青木の人柄もあり、伴走者も少しずつ増え、今は会社員など約30人。LINEなどで情報を共有しながら毎朝のジョギングから国内外のレースまで交代で支えている。ちなみに「およ」は彼女の旧姓に由来するニックネームだ。
「伴走者は普段の練習から私の状態を見て感じ取って判断してくれる存在。だから、一緒に食事したりしてコミュニケーションを取ることも大切。ブラインドマラソンはチーム競技なんです」
また、遠方から大分に駆けつけた応援団にも感謝する。家族や友人、所属企業などから約30人が沿道のあちこちから青木を声で励まし、後半の粘りを支えた。とくに、「およ!」と呼びかけられると、知人からの声援ということがわかるので、「テンションがどんどん上がっていきました」と振り返る。
もちろん、練習の積み重ねも好走の要因だ。「これまでと同じことをやるだけでは結果は変わらない」と新しい試みも取り入れた。昨年の別大後、オーバートレーニングで左シンスプリント(脛骨過労性骨膜炎)を起こし、数カ月はほとんど走れなかった。代わりにパーソナルトレーニングを取り入れ、柔軟性や体幹の強化など基礎的な体作りに取り組んだ。
左右差のある足のサイズに合わせてシューズもカスタマイズした。パーソナルトレーナーは青木のために動きの説明をテキスト化したり、伴走者も数名が同行して動画を録ってチーム内で共有し、正しいトレーニングが継続できるように後押しした。
そうして故障も癒え、地道な努力で強くなった体は秋口からの急ピッチの追い込みにも耐え、12月には自己ベストも大幅に更新。別大での快走につながった。自身の体と向き合うことはアスリートの基本だろう。競技歴の浅い青木にとって、さらなる伸びしろを感じさせる経験となった。
1976年宮城に生まれた青木は「もともと運動は苦手」だった。視覚障がいを負ったのは高校卒業後、網膜剥離が原因で、現在の視力は右目が明暗を感じるくらい、左は視力0.02だが視野が狭くかすんでいる。職業訓練校を経て2007年に現所属先に就職、障がい者向けの情報ポータルサイトの運営を担当する。ランニングと出会ったのは08年頃で、同僚から伴走者と走るランニングクラブを紹介されたのがきっかけだ。
「実は走るのも苦手でしたが、見えなくなって行動が制限されるなか、伴走者がいれば走れるという『新しいチャレンジ』に興味を引かれました」
始めてみると意外に楽しく、11年秋にはフルマラソンにも挑戦。5時間以上かけて完走し、「二度とイヤ」と思ったが、帰宅する頃には悔しさが募った。「せめて5時間は切りたい」と目標ができると練習にも力が入り、タイムは順調に縮まった。いつしか4時間を切る「サブフォー」も達成し、意欲はどんどん高まった。
転機は15年。仕事でオリンピックメダリストの有森裕子さんと対談した。有森さん自身、毎年かすみがうらマラソンで視覚障がい者の伴走者としても活躍している。話題がリオパラリンピックから正式種目となる女子のブラインドマラソンになったとき、有森さんから「チャンスは自分でつかむしかない」と励まされ、「パラリンピックを本気で目指そう」とスイッチが入った。
翌年には強化指定選手にも選ばれ、本格的に競技として取り組むと、タイムはさらに伸びた。18年には初めて日本代表に選ばれ、ロンドンマラソン兼2018ワールド パラアスレチックス マラソンワールドカップで4位入賞。そして、東京パラの推薦内定を得るまでに成長を遂げた。
とはいえ、出場はまだ確定していない。別大後の4月、ロンドンマラソンで実施されるワールドカップで出場枠をつかみに行く予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大によりレースは中止され、東京パラも1年延期された。
「準備できる時間が増えてチャンスが広がったとプラスにとらえています。『チームおよ』全員一致の思いです」
世界でしっかり戦えるように、持ち味であるスタートから思い切りよく飛ばす積極性を生かしつつ、スピードも持久力ももう一段階アップを誓う。
「東京パラは多くの人に、伴走者と一緒に走るブラインドランナーの姿を見てもらえるチャンス。競技の魅力や価値を伝えたいし、ブラインドランナーや支える伴走者も増えてほしい。そのきっかけに私がなれたらうれしい。だから、東京パラは『出たい』ではなく、『出る』と思って準備しています」
多くの支えとともに、さらに強くなった青木が晴れの舞台を駆け抜ける日を、楽しみに待ちたい。
*本記事はweb Sportivaの掲載記事をバックナンバーを配信したものです。
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星野恭子●文 text by Hoshino Kyoko photo by Yoshimura Moto