パラカヌーにおける日本の絶対的エース。それが、瀬立モニカだ。パラカヌーが初めてパラリンピックに正式採用された2016年リオデジャネイロ大会では、アジア人で唯一の代表として出場を果たした。しかし決勝では大差をつけられての最下位。あの時の悔しさは一日も忘れたことはない。リオでの敗戦をバネにして着実に力をつけてきた瀬立。そんな彼女にとって、コロナ禍で激動の1年となった2020年は、どんなシーズンとなったのだろうか。
ケガを押しての日本選手権出場の理由
「東京パラリンピックで金メダル」を宣言し続けてきた瀬立モニカ。それが単なる目標ではなく、現実味を帯びてきたのが、19年8月の世界選手権だ。結果は日本のパラカヌー界では過去最高の5位入賞。しかもリオパラリンピックの金メダリストをおさえての快挙を成し遂げ、東京パラリンピックへの切符を獲得した。そして、彼女の成長を裏付けたのは、順位だけではなかった。リオでは10秒以上もあったトップとの差が、同レースでは約3秒にまで縮まったのだ。瀬立本人も「成長スピードは、世界で一番」と自信を口にしていた。
だからこそ、東京パラリンピックの1年延期が決定したことも、プラスに捉えることができたのだろう。もちろん決勝が予定されていた20年9月5日に照準を合わせて、4年という歳月を費やしてきたのだ。葛藤がゼロだったわけではないだろう。それでも気持ちをリセットするのに、そう時間を要しなかったのは、自分自身への伸びしろを感じていたからにほかならない。1年の延期は、そっくりそのまま成長する時間へと変換する。そんなふうに瀬立はプラスにする自信があった。
思わぬアクシデントが起きたのは、昨夏のことだった。練習中に骨折をしてしまったのだ。それは、昨年9月に行われた日本選手権直前のことだった。
「その時はレース前だから調整しようなんて気持ちは全くなくて、1年延期となった分だけ自分は成長するんだってことしか考えていませんでした。だから、体に負担がかかっていることに意識を向けられていなかったのだと思います」
医師からは疲労骨折と診断された時、瀬立は激しい痛みに耐えながら「これで今年の夏は終わった」と思った。「チーム・モニカ」のスタッフからも日本選手権を棄権することを勧められた。ところが2、3日すると、予想以上に痛みがひいた。それでもスタッフからは「無理する必要はない」という声がほとんどだったが、最後は瀬立自身で出場することを決めた。
すでに東京パラリンピック出場が内定しており、日本選手権は瀬立にとって何かにつながるレースでもなかった。にもかかわらず、ケガを押してまで出場したのにはどんな理由があったのだろうか。そんな率直な問いかけに、瀬立は笑顔でこう答えてくれた。
「ひと言で言えば、“そこに試合があったから”です。結局、ただのおバカちゃんなんですよ(笑)」
きっと、ふと口にしたひと言だったに違いない。だが、逆に言えば、何の意識もなく自然に出た言葉でもあったように思えた。飾り気のない素の「瀬立モニカ」が垣間見られたような気がしたのだ。
瀬立は、続けてこう説明してくれた。
「わざわざ遠くに移動しなければいけないのなら、もちろん棄権したと思います。でも、すでに現地にもいましたし、前日に練習したら意外と漕ぐことができた。私が出場するのを待っている人たちもいる。そんななか、目の前のレースを棄権するという選択肢は自分にありませんでした」
どんなレースであれ、勝負の場にいればスイッチが入る。そんな自分を止めることを、瀬立はしたくはなかった、あるいはできなかったのかもしれない。
東京パラへの自信となった“ケガの功名”
結果は、1分05秒069。すでに1分を切ることが当然という世界トップレベルの位置にいる瀬立にとっては、「話にならないタイム」だった。だが、瀬立自身が感じていたのは“ケガの功名”だった。
「ケガをしたことは、来年に向けての光になりました。ふつうレースでは気持ちを高めた状態で臨むのですが、今回はケガが完治していなかったので、とにかくある程度のスピードをキープするだけで、無理に力を入れないようにして臨んだんです。そういうレースはほぼ初めてだったので、とても新鮮でしたし、いいメンタルのトレーニングになりました。東京パラリンピックでは地元での開催ということもあって、自然に気持ちが高ぶると思うんです。でも、気持ちが空回りするようなことではいけないわけで、冷静さも必要です。そういう意味では今回、気持ちを抑えて、前もって決めたスピードで漕ぎ切るということができました。どうすれば気持ちをコントロールできるかが少しわかったような気がします。それにこれだけ自制心を持ってレースに臨めたことに、自分自身の成長も感じられました」
ケガの功名は、もう一つある。改良を重ねてきたシートに対する考え方をリセットできたことだ。瀬立が国際デビューを果たした15年から、メカニックとしてサポートしてきた宮本雄二氏は、こう語る。
「今まで6年間モニカとともに改良を重ねてきて、東京パラリンピック用はその積み重ねの結集として最たるものを作ろうとしていました。でも、日本選手権前に思わぬケガをしたことによって、シートに対しても『一度これまでのことは置いておいて、とにかく今のモニカには何がいいのか、ゼロから考えてみよう』ということになったんです。そしたら改めてモニカの姿勢を見たら『あれ、こんなにもフィジカルが鍛えられて体の軸ができているんだったら、こういうシートの方がいいのでは?』と。それと絶対にこれでいいと思い込んでいた腹当ての位置や強度が、実は違うんじゃないかってことにも気づいたり。そんな新しい発見があったんです」
新しいシート作りは順調で、今月末にも“東京パラリンピック用”が納品される予定だ。
果たして、20年は瀬立にとってどんな1年となったのか。
「今だから言えることですが、延期にならずに昨年に東京パラリンピックが開催されていたとしたら、メダル争いには絡んでいたという自信はあります。でも、金メダルには届いていなかったかもしれないなと。でも、今は違います。東京で金メダルを取るために、いろいろなことに挑戦して、得ることができたという実感があるんです。もちろん何かを変えたり、新しいことにチャレンジすることはリスクを伴います。それでもリスクを恐れることよりも、挑戦し続けた。そんな1年を過ごせたなかで迎える東京パラリンピックでは、しっかりと自信を持って臨める気がしています」
今年5月には、ワールドカップが開催される予定で、東京パラリンピックまでの最後の国際レースとなる可能性が高い。会場は、瀬立が東京パラリンピックの切符を獲得した世界選手権と同じハンガリー・セゲド。昨年は世界選手権の出場を見送った瀬立にとって国際レースは、約2年ぶりとなる。思い出の地で再び“世界一の成長スピード”を見せつけ、東京への弾みとするつもりだ。
写真/越智貴雄[カンパラプレス] 取材・文/斎藤寿子
インタビュー 瀬立モニカ(パラカヌー)
今月のパラアスリート(18年6月号)