東京パラリンピックで3つのメダルを獲得したパラ競泳・富田宇宙
「人生、終わったなと思いました」
パラ競泳の富田宇宙は、高2の時、網膜色素変性症と診断された。網膜の異常で徐々に視野が狭くなり、失明に至る可能性が高い難病だった。
「治療法が今もないんですよ。その頃、僕は名前の影響もあってか宇宙飛行士になりたいという夢があったんですけど、もうなることはできないし、将来普通に就職することもできない。どう生きていけばいいんだろうって思いました」
徐々に目が見えなくなっていくなかで、できないことが増えていく。それまであまり人に頼ることをしてこなかった富田にとって、大きなストレスだった。
「僕は人をリードしていく人間でいたいと思うタイプだったので、誰もが簡単にできることを人にお願いしてやってもらうことがすごく苦痛でした。自己嫌悪と申し訳なさがつきまとって、素直に頼める感じにはならなかったです」
当然だが、見えないことは圧倒的に不自由だ。たとえば、友人と食事に行くとなっても的確な店を探すことは難しいし、メニューも教えてもらわないとわからない。富田はメニューが多い時は友人と同じものを選ぶか、あらかじめ決めておいて店員さんに聞き、あればそれを頼むことが多い。メニューを読み上げてもらう手間に配慮してのことだ。
「いろんなもののなかから自由に選ぶという楽しみはなくなりました」
選手としての栄養価を外食で摂ることが難しく、自炊していた時期もある。食料品はひとりの時はスーパーの店員にお願いしてカゴに入れてもらう。週末に友人の手伝いでまとめ買いをすることもあった。唯一、よかったのは好き嫌いがなくなったことぐらいだ。
「僕はトマトが嫌いで、それってサラダを頼むとついてくるじゃないですか。でも、見えないので口のなかに入れてしまうんですよ。それを吐き出すわけにもいけないですし、嫌いなものをよけるのってすごく手間がかかるんです。それで仕方なくなんでも食べるようになりました」
昔はトマトが……と今は笑って話せるが、最初の頃は、嫌いなものをよけることもできないのかと落ち込むこともあった。
「一つひとつ細かなことなんですけど、障害は常につきまとうし、一生続く。その絶望感とか、喪失感は計り知れないものがあります」
富田が先天的に見えなかったなら、ここまで苦しむことはなかったかもしれない。だが、後天的に見えなくなった富田の場合、見えていたものが見えなくなる度に計り知れないほどの衝撃を受け、困難と絶望の波に襲われた。
そんな富田の人生に彩りを与えたのが、パラアスリートという道だった。
大学を卒業し働いていくなかで、自分の障害を活かせる職業で働く必要性を感じ、たどり着いたのがパラアスリートだった。マラソン、自転車なども試したが、高校までやっていた水泳が比較的結果が出やすかった。「経験があり、周囲の人からも必要としてもらえた」ということで、水泳を選んだ。
「その時は、自分にしかできないこと、目が見えないことをプラスにできるような選択肢を考えないと、僕は生きるのが苦しいなって感じていました。パラアスリートになると障害を活かして働くことができる。自分がチャレンジする姿を発信することで周囲の人がパラアスリートを知るキッカケになるし、周囲をモチベートできる。それが自分の障害を活かす働き方だと思ったんです」
富田は高校を卒業してプールを離れたが、6年ぶりに戻ってきた。そして、それから8年後、東京パラリンピックの舞台に立ったのである。
東京五輪延期決定後には、コロナ禍の影響で施設が閉鎖され練習できない時期もあった。また、開催について否定的な声が上がり、競技を通じて周囲へ発信することを重視してきた富田は、大会への出場について「ポジティブな感情を持てなかった」と言う。だが、東京五輪が始まり、競技と純粋に向き合うアスリート達の姿を目の当たりにして富田の気持ちに変化が生じた。
「スケートボード競技はノンプレッシャーで大会をエンジョイできている選手ほど技をメイクできているように感じたんです。リラックスして大会を楽しむ姿勢が結果につながっていた。そして、そういうアスリートの姿こそが見ている人を勇気づけると感じて、自分も悩みやわだかまりを捨てて、大会を楽しもう。それがアスリートが一番やらないといけないことであり、プロだなって感じたんです」
パラ競泳、自身にとって最初の種目である男子400m自由形で銀メダルを獲得した。この時、富田は「ホッとした」と語ったが、それは自身のメダル獲得のことよりも、結果を出したあとに、これまで自分が社会に対して伝え続けてきた主張について、メダルをきっかけにメディアに発信する準備をしており、その責任を果たせたことでの安堵感が大きかったと言う。メダル獲得よりも社会に対して自分の思いや考えを広めていくことに意義を感じる選手は、なかなかいない。
100mバタフライでは、木村敬一と争い、銀メダルを獲得した。レース後、負けたにもかかわらず、となりのレーンの木村と喜びをわかち合い、満面の笑みを見せるシーンが非常に印象的だった。
なぜ、あの時、笑顔だったのか。
「さまざまな思いを振りきって大会を楽しむことにフォーカスしようとした時、メダル獲得とかその色とか、自分がコントロールできないものにこだわると楽しむことはできないと気がついたんです。結果にこだわりすぎて個人的な一喜一憂を全面に出すよりも、ここまで応援してくれた人たちに感謝したい、それが責務だと考えていました。強いて言うなら、木村君と競って銀メダルに終わったことよりは、自己ベストを更新できなかったことが悔しかった。他の個人種目ではベストを更新していましたし。だから、木村君が金メダルを獲って自分の夢を叶えたことは僕の結果と無関係にうれしかったんです」
木村は、金メダルを獲ることに執着してきた。富田は、金メダルを獲れなかったことではなく、自己ベストを更新できなかったことに対して悔しさを見せた。
なぜ、メダルよりも自己ベストを優先しているのだろうか。
「僕にとって金メダルは重要ではなかった。それを聞いた木村君は相当不快に思ったみたいです。それで、僕もその時、本当は金メダルがほしいのに逃げているだけなんじゃないかって自問したんです。だけどやっぱり金メダルへの欲はなかった。そこにこだわると頑張れないからです。僕は自分の成長にフォーカスしています。それだとどこまでも努力できるし、頑張れる。そこで金メダルという不確かなものに体重をかけると、頑張れないんですよ。そこが木村君の強さで、僕の弱さかもしれないけど、僕はその考えを変えようと思いません」
富田の考えを理解するには、彼の競技環境を理解する必要がある。パラ競泳の世界は、障害によってクラス分けされており、クラスと種目によっては国内だとひとり、あるいは数人、国際大会でも規模によって数組しかいないという場合があり、そのメダルの価値が疑問視されているという背景がある。富田はかねてより100m自由形で木村よりもはやいタイムを持っており、パラリンピックでの金メダル獲得が期待されていた。だが、その種目はメダルの価値を保つことを理由に削除されることになり、富田は大きなチャンスを失った。
「この時、メダルとか、順位とかにウエイトを置いても自分がぶらされてしまうだけだと気がついたんです。それに、たとえば国内レースでは極端に人が少ない400m自由形だと、一昨年も昨年もひとりで泳いで金メダルなんですよ。支援してくださっている企業に、また金メダル獲りましたと言ったところでその価値を理解してもらうことは難しいじゃないですか。じゃあ企業に自分の頑張りを何で伝えられるかと言うと、タイム、自分の成長しかないな、と思うわけです。そういう経緯で、フォーカスするところが自己ベストの更新になっていったんです」
富田は、200m個人メドレーでも銅メダルを獲得し、合計3個のメダルを得た。大会前、パラリンピックに興味を持ってくれている人は少ないと感じていたが、いざ大会を終えてみると、「東京パラリンピックのパワーは非常に大きかった」と感じた。
「僕個人の活躍というよりも、選手達のパフォーマンスが発するパワーが小細工抜きに皆さんを感動させる力を持っていました。また、驚くほど多くの人から好意的な感想をいただいて、思った以上にみなさんに届くんだなと思いました。ただ、パラの持つポテンシャルはもっと大きいはずです。今回、東京パラリンピックをきっかけにつながったみなさんとパリに向けて一緒に発信し続け、もう一段階、パラリンピックムーブメントを大きくさせていきたいですね」
次のパリパラリンピックでは35歳になる。パラアスリートの競技人生は健常者よりも息が長いが、継続は容易ではない。富田は「以前の結果にしがみつくことはしたくない」と語る。
「僕は、元なになにというのが好きじゃないんです(笑)。常にプレーヤーでいたいし、チャレンジャーでいたいから競技は続けます。だけどそれだけになるつもりはない。スポーツをやってきて、スポーツのパワーを学びました。一方でスポーツだからこそ届かない人たちがいることも実感しています。だからその枠を超えてチャレンジしたいんです。今、考えているのは、僕が障害を負う前に持っていた宇宙に行く夢を、障害者として叶えたいということです。そうすることで、みなさんによりポジティブなメッセージを届けられると思うので」
富田は、小中学校などで講演し「ありのままの自分を活かして自分らしい人生を歩むことの大切さ」を伝えてきた。それを自ら体現していくことで、より強烈なメッセージを多くの人に届けてきた。今後もそうして社会との接点を深め、自らの存在感を示し、価値を高めていく──。
*本記事はweb Sportivaの掲載記事バックナンバーを配信したものです。
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佐藤俊●文 text by Sato Shun photo by ロイター/アフロ