日本で義足スノーボーダー第一人者である、小栗大地(三進化学工業/大腿義足LL1クラス)の2度目のパラリンピックは、狙っていた表彰台に届かなかった。得意のスノーボードクロスで5位、バンクドスラロームで7位。
「悔しいです。ここから4年間は技術をしっかりと磨いていきたい」
いつもの冷静な口調のなかに熱い想いをにじませ、視線を鋭く前に向けた。
義足が前になるグーフィースタンスに変更し、北京パラに臨んだ小栗大地
北京パラリンピックのスノーボード競技。初戦のスノーボードクロスは予想より長く複雑なコースレイアウトで、高い気温や中国特有の黄砂が雪質に影響したが、公式練習やトレーニングで、ワックスや義足のセッティングを何パターンも試して調整し、予選を突破。複数人で同時にレースをする決勝ラウンドに進出し、準決勝まで勝ち進んだ。トップ4による決勝は逃したが、スモールファイナルでは平昌大会銅メダリストのノア・エリオット(アメリカ)に競り勝ち、1着でゴール。平昌大会の7位から2つ順位を上げた。
一方、バンクと呼ばれるコーナーが設けられた旗門コースを滑るバンクドスラロームは、2回のうち速いほうのタイムで競う種目。当初予定されていた予選がなくなり、決勝のみ実施された。さらに気温上昇の予報で競技スケジュールが1日前倒しになり、練習機会が削られるなかで迎えた本番。
1回目は「攻めていこうと気持ちが前に出すぎた」と小栗。想定と異なるライン取りや、ヒールサイドのターン精度が甘く、次のバンクでのトウサイドのターンでバランスを崩して手を着くシーンがあった。2回目はきっちりと修正して小栗らしいアグレッシブな滑りを展開。途中のバンクで板がズレて失速するミスもあったが、1回目からタイムを1秒以上縮めてゴールした。
6位の選手とは1秒13差。「結構タイム差がある。悔しい。でも、平昌の時よりはいい滑りができた。今の実力は出せたかなと思います」と振り返った。
小栗は4年前の平昌大会後、2つの大きな”挑戦”を掲げた。ひとつは、より長く練習時間を確保するため、所属先に打診してアスリート雇用に切り替えること。そして、もうひとつはこれまでのレギュラースタンスからグーフィースタンスに変更することだ。右足大腿義足の小栗の場合は、うしろ足を健足側にすることでキッカーなどでより強く雪面を蹴り上げることができるという判断だ。
小栗によれば、グーフィースタンスへの転向は「野球の右バッターが左バッターになるような感じ」だという。大会直前の取材では、「野球でもスイッチヒッターがいるように、できないことはないという感じです。ただ、僕はプロの時もパラスノーボードを始めたあとも、20年以上ずっとレギュラーで滑ってきたので、その違和感がなくなるのに3年かかりました。さらに言えば、本当にレギュラーと同じような感覚で滑れるようになったのは、今季に入ってからです」と話していた。
そして、「こんなに時間がかかるとは、正直思わなかった」とも。レギュラースタンスのうしろ足が義足の時と、グーフィースタンスの前足が義足の時では、セッティングが異なる。
さらに当時は大腿義足でレースに出る国内選手はほとんどいなかったため情報がなく、手探りでベストを見つけなければならなかった。W杯などで海外遠征に行った際に同じ大腿義足の海外選手に尋ねることはあったが、すべて手の内を明かしてくれるわけではない。彼らの映像を分析し、試し、地道にデータを積み上げ調整していくしかなかったが、あきらめることはなかった。「常に上達している感覚を得られていたから」と話すように、明日につながる成長の実感が挑戦をあと押ししていた。
義足を使いこなす目的で、春から夏にかけてはスケートボードの練習にも取り組んだ。同じ”横乗り系”で、義足のセッティングや板のコントロール、乗る位置なども似ている。ミニランプはスノーボードクロスのスタートセクションのようにアール状になっており、反復練習して身体に感覚を覚えさせた。
同時に人工芝のジャンプ練習施設に通い、バランス感覚を磨いた。滑りのスピードにつなげるため、体重はこの4年間で6キロ増量。うまくなりたい、速く滑りたい。そのためにできるすべてのことにトライし、そして北京に間に合わせた。
「スタンスを変えてスノーボード自体もうまくなりました。たぶん今レギュラーに戻しても、平昌の時よりも速く滑れると思う。スノーボードの滑り方、義足の使い方やセッティングも、グーフィーにしてすごく学ぶことができた。4年前とは比にならないくらい、成長できたと思います」
北京でのすべてのレースを終えた小栗は、そう語る。
幼少期から家族とスキーを楽しみ、スノーボードを始めたのは小学5年の時。最初は転んでばかりで大変だったが、滑れるようになると楽しくなり、スノーボードブームも相まって中学3年になると友人たちとバスツアーで出かけた。大学生になって車の免許を取得すると自分で運転して雪山へ出かけるように。当時、大学では音楽バンドのサークルに入ってギターを弾いていたが「一番になりたいけど、音楽の才能はないな」と達観したところから、スノーボードを競技として取り組むことを意識し始めたという。
大学2年から夏休みにニュージーランドでのキャンプに参加するようになり、大学卒業後は、冬はスキー場で、夏はニュージーランドで滑る生活を送り、25歳でプロ選手になった。就職もして競技との両立を図っていた2013年、仕事中に重さ2トンの鉄板の束が足の上に落下し、右足をひざ上から切断した。
救急車の到着を待つ間、考えていたのは競技のこと。
「義足でスノーボードできるかな」
実際に小栗は事故の約4カ月後に義足でスノーボードを再開している。すぐに雪上に復帰できたのは、ある選手の存在が大きく影響している。今大会、アルペンスキー競技に日本代表として出場している隻脚スキーヤー・三澤拓(SMBC日興証券)だ。小栗がニュージーランドで泊まっていたバックパッカーの宿に、高校生だった三澤が知り合いを尋ねて遊びに来ていた時に知り合った。当時、ゲレンデで三澤が片足一本で滑る姿を見ていたのもあるが、「一番は拓が義足で日常生活を送る姿を知っていたから、義足に対する不安がなかったんです」と明かす。
三澤は北京大会で5度目のパラリンピック。普段から連絡を取りあっているわけではないが、遠征先でバッタリ会うこともあり、話せば刺激を受ける存在だ。
今大会は同じ雪上競技でも会場が違うため、選手村も別々。出発前の日本代表選手団の結団式もオンラインでの参加だったため、まだ会えていない。開会式の日に現地から三澤が投稿したSNSに「全部出し切って閉会式で会おう!」とコメントを入れたがまだ返事はなく、「もしかしたら帰国してから成田で会うかもしれないね」と笑う。
スノーボード日本代表チームのキャプテンとして仲間を率い、ともに成長し、他競技のアスリートに刺激を受け、家族や所属先などたくさんの人の応援とサポートを受けてここまで歩んできた。ひとつの形として実現したいのは、やはりパラリンピックのメダルだ。北京での収穫と課題を成長につなげていくことを誓った小栗。不屈の闘志で、4年後のミラノ・コルティナダンペッツォ大会に向けて、リスタートを切る。
*本記事はweb Sportivaの掲載記事バックナンバーを配信したものです。
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写真/小川和行 ・ 文/荒木美晴