「チャレンジド・スポーツ プロジェクト」を掲げ、多彩なパラスポーツとパラアスリート支援に力を注ぐ「サントリー」と、集英社のパラスポーツ応援メディア「パラスポ+!」。両者がタッグを組み、今最も注目すべきパラアスリートやパラスポーツに関わる仕事に情熱的に携わる人々にフォーカスする連載「OUR PASSION」。東京パラリンピックによってもたらされたムーブメントを絶やさず、さらに発展させるべく、3年目のチャレンジに挑む!
国内屈指のクラッチシューターとして、車いすバスケットボール女子日本代表でも長く中心選手として活躍し続けている土田真由美選手。本格的に車いすバスケを始めたのは30歳を超えてから。いわゆる“遅咲き”のキャリアながら、女子チーム「SCRATCH」、男子チーム「パラ神奈川SC」の両方に所属しながら二足のわらじで車いすバスケに情熱を注ぎ続ける彼女の知られざる“強さの秘密”、そしてパラアスリートとしての信念に迫った。
──土田選手は昔からスポーツが好きで、体育大学時代にはスポーツトレーナーを目指されていたそうですが、そんな中どのようなきっかけで車いすバスケットボールと出会われたのでしょうか。
大学生の頃にたまたま立ち寄った体育館で車いすバスケの練習が行われていて、先輩から「ちょっと乗ってシュートを打ってみたら?」と言われて興味本位でやってみたのが最初ですね。バスケットボールそのものは小中学校の頃に授業などで経験していたのですが、車いすに座ってゴールを眺めたときに、「うわ、高いな…」と。それに競技用車いすを思うように操作することができなかったこともあって、率直に「これは正直、私には難しいな」と思いました。
──当時はまだ、車いすを必要としない生活だったそうですね。
はい。自分に先天性の障がい(股関節変形)があって将来歩けなくなる可能性があるということを頭ではわかっていましたけれど、当時はまだその現実を受け入れられていませんでした。だから車いすバスケも初めて体験して以降もすぐに本格的に競技を行おうという考えには至りませんでした。
──その後、土田選手が車いすバスケを本格的に始めたのは32歳の頃。大学卒業から10年を経て競技生活をスタートさせた裏にはどのような思いがあったのでしょうか。
年齢を重ねながら、少しずつ歩ける時間や立っていられる時間が短くなり、「ああ、病院の先生が言っていたのはこういうことだったのか」とじわじわと現実を知ることになりました。それでもなかなか受け入れられず、リハビリをしたり、日常生活でも工夫をしながら進行をなんとか遅らせようとしていたのですが、障がい者手帳を持つことになったときに初めて自分の障がいを強く実感してショックを受けました。そんな中でも、障がいがあってもできる車いすバスケという競技の存在があったので前向きな気持ちを持つことができました。
──そこから車いすバスケのどんなところに惹かれていきましたか?
バスケそのものの技術と車いすを操作する技術の両方が必要という点で、当初はとにかく難しさを感じていました。ただ私は負けず嫌いでもありましたので、日頃からうまくできない悔しさをバネに練習を重ね、その過程で少しずつできることが増え、それが嬉しくてまた努力をして、ということを繰り返しているうちにどんどん上を目指したいと思えるようになっていきました。そのスタンスは今でも変わっていませんし、車いすバスケは本当に奥が深くて何年競技を続けていても毎日が勉強だと思っています。
──アスリートキャリアのスタートから約1年。2010年には初めて日本代表に選出されました。
世界選手権のメンバーに選んでいただいたのですが、「日本代表選手になった」という実感はほとんどなかったですね。だからといって選ばれたからには新人であることに甘えてはいられません。代表に選ばれた以上キャリアが長い選手たちとも同じような自覚を持ってプレーしなければいけない、日本代表という名に恥じないように日々成長を積み重ねていかなくてはいけないと思いながら無我夢中で毎日を過ごしていましたね。
──「パラリンピックに出たい」という思いが具体的なビジョンとしてご自身の中に芽生えたのはいつ頃ですか?
いちばん大きなきっかけは2012年ロンドン大会の地区予選。日本は負けてしまって本大会への出場権を逃したのですが、私は努力が足りなくてその予選メンバーに選ばれず、インターネットで試合の中継を見ていたんです。そのときに、その場にすら立てていない自分のことをすごく情けなく思い、もっともっと成長してパラリンピック出場の切符を勝ち取れるような選手になりたいと強く思いました。
──そこからパラリンピック出場という目標を掲げながら、どのようにレベルアップに努めてこられましたか?
ロンドン大会の予選メンバーに選ばれなかったときから自分なりに努力はしましたが、それでも次のリオ大会の切符も逃してしまってこのままでは本当にダメだなと。そこで、国際大会で思うようにプレーができなかった要因をもう一度見つめ直し、海外選手たちに当たり負けしない強さを身につけるために海外に行って練習をしようと決意しました。それでオランダのナショナルチームにコンタクトを取って、練習に参加させてもらえないかとお願いをしたんです。
──お一人で飛び込まれたと。
2015年、リオ大会の予選で敗れた翌日に行動を起こしたのですが、振り返ると思い切ったことをしましたよね(笑)。先方としてもそんな形で日本から直接選手が連絡をしてきたのが初めてだったらしく、どうしようという感じだったと思いますが、1年半ほどかけて私のように海外から選手が来られるアカデミーのようなものを作ってくださったんです。それで最初にコンタクトをしてから2年後、オランダに渡航することができました。最初は3ヶ月ほど行って、帰ってきてまた2ヶ月、そしてまた1ヶ月と、全部で3回、オランダに滞在しながらトレーニングを積みました。
──その果敢なトライの原動力になったものとは何だったのでしょうか。
最初に「車いすに乗ってシュートを打ってみたら」と言ってくださった方をはじめ、いろんな方々の助けがあったからこそ私は車いすバスケットボールを続けることができています。だからパラリンピックのメダルを獲ってお世話になった皆さんに恩返しがしたいという気持ちが強かったのですが、当時、思うような結果が出せずにいたことにもどかしさやジレンマを感じ、「どうにかしなきゃ、私の人生これじゃあダメだ!」って強く思って行動に出ました。
──2021年、紆余曲折を経て辿り着いたパラリンピックのコートは土田選手にとってどんな場所になりましたか?
あのような時勢の中で大会を開催するにあたって大変な思いをされている方々も多かったと思いますので、直前までは「本当にいいのかな」という気持ちもありましたけれど、実際に大会が始まってからはバスケのことだけに集中して過ごすことができました。大会を開催していただいて本当にありがたい気持ちでいっぱいでしたね。自分自身のプレーとしては、オランダに行かせてもらったことで技術的にも精神的にも確実にレベルアップした姿は見せることができたと思います。ただ、日本代表としてコートで戦う以上はやはり結果がすべて。メダルを獲るという目標を達成できなかったので、まだまだ私自身の努力が足りなかったと実感した大会でもありました。
──今後のビジョンについてもお聞きします。次の2024年パリ大会も含めて、どこまで現役選手として高みをめざし続けたいと考えていますか?
いつまでと期限を決めてしまうと窒息してしまいそうになるので(笑)、あまり先を考えないようにはしつつ、次のパリ大会こそはメダルを獲りたいという気持ちが強いですね。日本代表は今年新たに就任された岩野(博)ヘッドコーチのもと、「走るバスケ」をテーマに高さではなくスピードや攻守の切り替えの速さで勝負していくスタイルで強化をめざしています。そのクオリティをもっともっと上げていけば良い結果に繋がると信じています。そんな中にあって、私自身は若い選手たちからも多くの気づきをもらいながら車いすバスケを楽しむ気持ちを忘れず、かつハイポインターとして得点を取るなどチームから求められる役割を高いレベルでこなせるような選手でありたいですね。
──東京パラリンピックをきっかけにパラスポーツを取り巻く環境も大きく変わったと思います。まだまだ課題も多いと思いますが、今後の女子車いすバスケシーンのさらなる普及・発展に向けて土田選手はどのような役割を担っていきたいと考えていますか?
数年前と比べてメディアでもたくさん取り上げていただき、車いすバスケをひとつのスポーツとして見て頂ける機会が増えたことは本当にありがたいことですね。だからこそ今の機運を次に繋げていくことが何より大事になると思うので、例えば障がいを持った子供たちが「私も車いすバスケをやってみたい」と思ったときにすぐに挑戦できるよう、より身近に体験できるような場所や機会が増えるといいなと思いますし、そのために私自身も選手としていろんな発信をしていきたいです。
──本連載は「チャレンジ」という言葉を大きなキーワードにしていますが、土田選手が何かにチャレンジする上で大切にしている信念とは。
「限界は自分だけが決められる」ということでしょうか。競技を本格的に始めて13年になりますが、まだまだできないことも多くあります。今あるこの環境に感謝をしつつ、できないことが多いということはそれが伸びしろでもあると思って、もっともっとレベルアップしていきたいです。
──最後に、車いすバスケットボールは土田選手の人生に何をもたらしてくれましたか?
すごくたくさんあります。何よりも障がいから立ち直るきっかけになりましたし、チームメイトや海外の選手たちをはじめ、新しい仲間、友人をたくさん得ることができました。今となっては出会わなければどんな人生を送っていたのか想像もつかないくらい、車いすバスケは私にとって生きがいそのものと言えますね。
PROFILE
つちだ まゆみ●1977年生まれ、滋賀県長浜市出身。スポーツトレーナーをめざして進学した体育大学2年時に腰痛を発症し、医師の診断を受けたところ将来的に歩行困難となる先天性の股関節障がいであることが判明。その後、障がいの進行と向き合いながら2009年に選手登録を機に車いすバスケットボールを本格的に開始。2010年にイギリスで開催された世界選手権において日本代表に初選出され、2013年には全日本女子車いすバスケットボール選手権大会で優勝&MVPに輝く。2018年から女子チームの強豪「SCRACH」に所属しながら翌年からは男子チーム「パラ神奈川SC」でもプレー。昨年の東京パラリンピックにも出場して6位入賞に貢献。株式会社シグマクシス所属。
SUNTORY CHALLENGED SPORTS PROJECT
サントリー チャレンジド・スポーツ プロジェクト
www.suntory.co.jp/culture-sports/challengedsports/
Composition&Text:Kai Tokuhara Photos:Takahiro Idenoshita