「変化を恐れず、限界の蓋を外す」。そんな信条を胸に、走幅跳からパラトライアスロンに転向して自身4度目のパラリンピックに挑む谷 真海。長引くコロナ禍、そして1年の開催延期に伴う困難や葛藤を乗り越え、間もなく迎えようとしているアスリート人生最大のハイライト。「東京2020パラリンピック」を直前に控えた彼女の今の思いを届ける。
── 谷さんにとっては招致活動から携わった東京2020オリンピック・パラリンピック。まず7月23日にオリンピックが開幕しましたが、どのような心境で迎えられましたか?
(※このインタビューはオリンピック開催中の7月28日に行った)
純粋に、「ああ、いよいよ始まった。やっとここまで辿りついたなあ」と、これまで(のオリンピック)以上に感慨深さがありました。開会式は家族と一緒に家で見ました。コロナ禍での開催ということでおそらくたくさんの方々がどこか複雑な気持ちで見るんだろうなあと思いつつも、とくに日本選手団の入場時は「これから選手たちがどんなパフォーマンスを見せてくれるんだろう」って、やはりワクワクしましたね。
── 新国立競技場を行進する各国の代表選手たちの生き生きとした表情が印象的でした。
「ついにこの日が来た!」という喜びに満ちているように私も感じました。その感情というのは、マスク越しでも十分に伝わってきましたね。
── 8月24日のパラリンピック開会式では、日本選手団の旗手を谷さんが務められます。
私で良いのでしょうか、とも思いますけれど、とても光栄に思いますし、同時に八村塁選手や須崎優衣選手のように「あの国旗を自分が持つんだ」と思うとぐっと緊張感も高まりました。その点でもよりいっそう自分にとって忘れられない大会になるんだろうなという気持ちです。
これまで強化トレーニングで頻繁に訪れたという石垣島をパラリンピックに向けての最後の合宿地に。
── コロナ禍、そして1年延期。こうしてパラリンピック開幕を選手として迎えるまでには、様々な葛藤があったかと思います。
そうですね。競技を続けるべきかどうか、もちろん迷いました。2018年に自分の本来の障がいクラス(PTS4)が本大会で開催されないことが決まったときもそのような葛藤がありましたけれど、今回の1年延期というのはそれ以上に深く考えました。なぜならこれまで私が競技を続けることで犠牲にしてきた家族の時間というものがたくさんあって、「朝起きたらママが練習に出ていていない」といったつらい思いを幼い息子にさせてきましたし、海外遠征に出ると1週間くらい夫と息子だけでの生活になることも多かったんです。それもこれも2020年をゴールに設定していたから気持ちも身体もギリギリのところで踏ん張れていたところがあるので、それが1年延期になって、じゃあすぐに気持ちを切り替えて、という風にはなかなかいきませんでした。だから気持ちを整理して、もう一度パラリンピックをめざそうと思うまでにはそれなりの時間を要しました。
── もう一度パラリンピックをめざす。そう決意できたいちばんの要因とは?
一度立ち止まって、家族と多くの時間を共有する中で、シンプルに自分の生活に「やっぱりスポーツは欠かせない要素なんだ」と再確認できたことが大きかったですね。家族と一緒に日々笑って過ごす、ご飯を美味しく食べる、といったことと同じように、私にとってはスポーツをしているときが自分らしくいられる時間なんだなと。幸い息子も夫もスポーツが大好きなので、一緒に外を走るなどアクティブに過ごすことが多く、そんな日々を過ごす中で自然ともう一度トライしてみようという気持ちが湧いてきました。もちろん大会のないシーズンをどう過ごすのか、という難しさはありましたけれど、頭を切り替えて強度を落としながらゆっくり長くベーストレーニングをする、ということを楽しみながらできたように思います。そこもトライアスロンに再び気持ちが向いていくきっかけになりましたね。
トライアスロンへのチャレンジ初期から常に多くの課題に取り組んできたバイク。石垣合宿でもより精力的にトレーニングをこなす姿が印象的だった。
── 少し前ですが、4月に広島の廿日市で開催された「アジアトライアスロン選手権2021」が約1年ぶりのレースとなりました。そこで得られたものは大きかったのではないでしょうか。
2020年3月にオーストラリアのレースに出場して以来、丸々1年ぶりでした。レース自体は競う選手がいなかったこともあって終始自分との戦いだったので、いろんなことを冷静に、俯瞰して見ながら走ることができました。身体も思っていたより動きましたね。大会がない期間もコツコツと練習を積み重ねてきましたけれど、やはり自分の現在地というのは練習だけでは測れませんし、実際に試合に出ないと掴めない部分も多いので。あの廿日市で走り切れたことが今に繋がっていると思いますし、その後の横浜での試合(5月に開催されたワールドトライアスロンシリーズ横浜大会)も含め、その2大会が無事に開催されて出場できたからこそポイントが取れてパラリンピックに出場することができます。そういう意味でも非常に大きな大会でしたね。
4月の「アジアトライアスロン選手権2021 廿日市」でのゴールシーン 。コロナの影響で海外選手が来日できなかった中、久しぶりのレース感覚をじっくり取り戻すかのように、淡々と、かつ力強く走り切った。
── そして現在。本大会に向けての手応えはいかがでしょうか。
私の場合は、ひとつ上のクラス(PTS5)で出ることになるので、順位うんぬんよりもまずは「自分の力を出し切る」ということをテーマにしています。本番でそれができるように今は最後の仕上げをしているという感じですね。
── トレーニングを拝見して、コンディションも良いように感じました。
そうですね。2020年の春頃は首痛に悩まされていたことを考えると、むしろ以前より良いかもしれません。あとはもう、出るからには「楽しまなくちゃ!」という気持ちでいっぱいです。走幅跳時代も本当の意味で楽しめたのは3大会目のロンドンでしたので、トライアスロンで初めて出るパラリンピックでその余裕があるかどうかはレースが始まってみないとわからない部分もありますが、幸い、息子を毎日送り迎えしたり、会社(サントリー)が近くにあったり、馴染み深いホームのようなコースを走ることができますので。そこを走りながら自分が何を感じるのかもすごく楽しみですね。何も考えられないくらいハードなレースになるかもしれませんけれど(笑)。
石垣島でのインタビュー中のワンシーン。明るい表情から、トレーニングの充実ぶりがうかがえる。
── 谷さんが出場するパラトライアスロンPTS5クラスのレースは8月29日に行われます。いよいよ、カウントダウンが始まりました。
日々、「こうして大会前に追い込んで練習をするのもあと少しで終わりなんだな」と考えますし、それが少し不思議な感覚もありますが、自分の中にそういった感情が湧くことも含めて、スタートラインに立つまでの高揚感を楽しみたいですね。
── 4度目の出場となるパラリンピックは、ずばり谷さんにとってどんな大会になると思いますか? また様々な困難と向き合って勝ち取った出場は、今後のキャリアに何をもたらしてくれるでしょうか。
トライアスロンのキャリアそのものは短いですけれど、走幅跳時代も含めて、今大会はこれまでパラリンピックをめざしてチャレンジし続けてきた集大成という感じですね。それこそトライアスロンは本当にハードなスポーツなんです。時に「なんでこんなきついスポーツを選んだんだろう」と考えるくらいに。だからこそ苦しい時に一歩でも二歩でも前に、という強い気持ちが大切。気持ちが折れたらそこで終わってしまうスポーツという点で、トライアスロンで経験したことは今後の人生に様々なヒントを与えてくれると思っています。
── 集大成でもある東京パラリンピック。自身の走る姿とともに、何を伝えたいですか?
私だけではなく、パラリンピックに出場する世界各国の多くの選手たちに注目していただきたいです。言葉ではなく、アスリートが競技にひたむきにチャレンジする姿から多様性を感じ取れることがスポーツ本来の魅力だと思っていますので。だから純粋にスポーツとしてパラリンピックを楽しんでもらいたいです。何より私自身がそこに魅了され続けていますし、「人間には限界がないんだ」ということを常に教わっていますから。
PROFILE
たに まみ●1982年3月12日生まれ、宮城県気仙沼市出身。旧姓・佐藤真海。早稲田大学在学中に骨肉腫によって右脚膝下を切断。卒業後サントリーに入社し、走幅跳でアテネ、北京、ロンドンと3大会連続でパラリンピックに出場。2013年にはアルゼンチン・ブエノスアイレスで開催されたIOC総会の最終プレゼンテーションで招致スピーチを行う。結婚・出産を経て、2016年からパラトライアスロンに転向し、2017年の世界選手権で優勝を飾る。出場する東京2020パラリンピックでは日本代表選手団の旗手を務める。
写真/矢吹健巳[W] 構成・写真(廿日市)・文/徳原 海