3月27日、駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場で「オール陸上競技チャレンジ記録会」が行われた。障がいの有無に関わらず参加することができ、陸上競技の普及拡大を図るとともに、共生社会につなげていくことが目的の新しい大会だ。陸上競技4団体が協力して開催されたスポーツ庁委託事業「障害者スポーツ推進プロジェクト」のひとつで、21日のフレンドリー大会、26日のチャレンジ大会(投てき種目)に続いて、この日はトラック競技と跳躍が行われた。今回は同大会に参加した、177cmの長身ランナー関俊介(T37脳性麻痺)に注目した。野球から転向し、本格的に陸上競技を始めて2年のホープだ。
海外仕様にしたスターティングブロック
この日、100mと400mに出場した関は、いずれもタイムとしては納得することができなかった。しかしほんのわずかだが、最後の100mでは次のレースにつながる手応えも感じながら、大会を終えた。
まず午前中に行われた400m。21日に出場した200mでは自己ベストより2秒も遅く、なかなか調子を上げられずにいたため、この日も「あまりいい走りができないかもしれない」と感じていたという。結果的にタイムは1秒以上遅い1分8秒78だったが、最後のホームストレートでは追い風だったこともあり、粘り強く走ることができたという関。予想よりはいい走りができたことに、少しだけ安堵した様子だった。
そして午後には、200mとともにメイン種目としている100mに出場。するとゴール直後、「久しぶりに出してしまった!」と苦笑いの表情を浮かべた。14秒54と、コンスタントに13秒台で走る関にとっては、“最悪”に近かったからだ。しかし、その100mでは今現在、最も課題としているスタートには手応えも感じていた。
関は、本格的に陸上競技に転向して3年目となる今シーズン、スターティングブロックの高さを変えている。きっかけは、今年2月に自身初めて出場した国際大会(オーストラリア・シドニー)だった。これまで関は、ブロックの高さを最も低い位置にしていた。右側の手足に麻痺があるため、かかとの位置を低くすることで、スタートの時につまづかないようにするためだった。
ところが、2月の国際大会で使用した海外製のスターティングブロックは、最も低い位置でも、日本製のものよりも高かったのだという。その高さに慣れていなかった関は、少しとまどいを感じながらのレースになってしまったのだ。そこで帰国後、これからのことも考え、ふだんからスターティングブロックの高さを穴一つ分上げることを決断した。練習を始めて1カ月あまりの今は、その高さに慣れようとしている段階だ。
「(かかとの位置が)高い分、上体が前傾になるので、(最初の一歩目が)突っかかるような感じで、前にちょっと転倒しちゃいそうな感覚がまだあるんです」と関。今大会でも200m、400mではスタートが決まらなかった。しかし、最後の100mはこれまでで最もいいスタートの飛び出しができた。それは見ている側からも思いきり良く一歩目が出たことがわかるほど、それまでと比較すると非常に勢いのあるスタートだった。
それでは、なぜ14秒台というタイムとなってしまったのだろうか。聞けば、スタートこそうまく出たものの、その直後、向かい風に耐えることができず上体を起こすのが早くなってしまったのだという。空気抵抗を受け てしまったためにスピードに乗ることができなかったのだ。
現在の関は、まさに課題が山積みの状態だ。しかし、だからこそ彼には伸びしろしか感じられない。そんな見ている側を魅了するものが、関にはある。
0秒22差での敗北で残った悔しさ
つい先日、大学を卒業したばかりの関は、4月から新社会人となる22歳。陸上競技を本格的に始めたのは、2年前、大学3年からだ。それまで、関は野球選手だった。父親も7歳年下の弟も、高校は野球で越境留学するほどの野球一家。関自身も小学校から始め、中学校、高校では野球部に所属。ポジションは主に中堅手で、時には投手も務めたというほど、強肩の持ち主だ。
関は、右側の上腕と脚に麻痺がある。そのため、野球では捕球して送球する際には“グラブスイッチ”という手法でプレーしていた。左手でボールを捕った後、その左手にはめたグラブを右脇ではさみ、グラブから抜きとった左手でグラブの中のボールをつかんで送球するのだ。投手として投球する際には、左手でボールをリリースした後、すぐに右脇にはさんだグラブを左手に装着して捕球に備える。一方、打撃では右打席に立ち、右手はそえる程度で、ほとんど左手一本の力で、テニスの片手打ちのバックハンドショットのように打つ。
そんなふうにして、高校まで野球一筋だった関は、大学入学後は障害者野球チームの「東京ブルーサンダース」に所属。趣味で野球を続けるために、トレーニングの一環として通っていたのが、東京都障害者スポーツセンター内にあるジムだった。関が通院する病院の目の前にあったため、以前からよく利用していた施設だったという。
すると大学1年の時に、そのジムのトレーナーに「全国障害者スポーツ大会に“ソフトボール投”という競技があるから、野球やっているんだったら出てみない?」と誘われた。聞けば、2種目出場が可能だという。そこで関は、ソフトボール投のほかに50m走を選択。ほんの軽い気持ちで東京予選に出場したところ、50mは優勝、ソフトボール投は2位となり、全国大会に出場することになった。
今度こそ2種目で優勝するつもりでいた。ところが、両種目ともに2位という結果に終わった。悔しさが残ったのは、意外にも50mの方だったという。
「50mで負けたのが、どうにも悔しくて……」
3位以下には3秒近くの差をつけたそのレースは、2人でのデッドヒートとなり、関は0秒22差で敗れた。ゴール前での僅差での敗北が、関には強く印象に残ったのだろう。すると、悔しがっていた関に声をかけてきた人がいた。同大会で陸上競技の東京代表のコーチを務めていた佐藤健さんだった。
「心残りがあるなら、一緒に練習しないか?」
関は、佐藤さんがコーチを務める、義足ユーザーを中心としたランニングクラブ「スタートラインTokyo」で週に1回ほど練習をするようになった。とは言っても、当時は運動の一環。少しでも速くなりたいと思ってはいたが、競技者として走ることを極めたいという強い気持ちにはまでは至っていなかった。
「スタートラインTokyo」で練習をするようになって、1年が過ぎた大学2年のある日のこと。同じ競技場で、自分と同じ脳性麻痺の選手たちが練習していた。それが、今所属するSRC(シオヤ・レクリエーション・クラブ)だった。脳性麻痺のクラスで国内トップクラスの選手たちを輩出している名門クラブで、理事長の塩家吹雪さん(下の写真中央)は日本国内で有名なコーチ。その塩家さんを佐藤さんから紹介してもらい、関はSRCに入部した。世界を目指すチームメイトと一緒に汗を流していくなかで、いつしか関も、本格的に陸上競技をやってみたいという気持ちが芽生えていった。
走りを変えるポイントとなる右腕の可動域
関が今、重点的に行っているトレーニングがある。「初動負荷トレーニング」だ。
「野球をやっている時、右腕はほとんど固定していたので、腕を振るということをしてこなかったんです。でも、走るためには両腕の振りが重要。そこで今、初動負荷トレーニングをやっています。これはイチローさんも現役時代にやっていたもので、僕は体の可動域を広げることが目的。腕の振りが左右対称になるように、今、固まっている右腕の可動域を広げているんです」
こうしたトレーニングを行いながら、今シーズン目標としているのは、100mで13秒の壁を破ること。12秒台で走れるようになれば、12秒64の日本記録に近づき、国内のライバルたちと同じ土俵で戦うことができるからだ。そのうえで、来年あたりにイギリスで予定されているという脳性麻痺クラスの世界大会に出場して、自分自身の実力を試したいと考えている。
「もう少しスターティングブロックの高さに慣れてくれば、タイムにも表れてくるはず。あとは初動負荷トレーニングで、右腕の可動域を広げていくことで、推進力も出てくると思っています。まだ始まったばかり。すべてこれからだと思っています」
陸上競技に出会って4年、陸上競技者となって2年の関。「好きなのは、野球」というが、元来目立つことが好きな自分にとって、個人競技の陸上は合っているようにも思えている。そんな関には、今はまだパラリンピックという世界最高峰の舞台は、雲をつかむような遠い世界だろう。しかし彼が言う通り、挑戦はまだ始まったばかりだ。これからどんなランナーへと成長していくのか、注目していきたい。
写真/越智貴雄・ 文/斎藤寿子
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